1936年のベルリン五輪は、ヒトラーがナチス・ドイツの国威発揚と、ゲルマン民族の優秀さを世界に知らしめるために開いた大会でした。
しかし、大観衆の前で、そのヒトラーの顔に泥を塗る青年が現れます。金髪と碧(あお)い目の長身。これぞゲルマン人の理想像とうたわれた、走り幅跳び競技のドイツ人選手ルッツ・ロングです。あろうことか、彼は決勝で米国の黒人選手ジェシー・オーエンスに敗れたばかりか、まっさきにオーエンスに駆け寄って、肩を抱きかかえて祝福したのです。
ヒトラーの怒りは凄まじかったようです。ロングは6年後、第二次世界大戦でイタリアの最前線に送られて負傷し、野戦病院で30歳の若い命を散らしました。そういえば、戦争中の日本でも、毎日新聞社の新名丈夫(しんみょう・たけお)記者が「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という記事を書き、これに怒り狂った東条英機首相が新名記者を陸軍二等兵として最前線に送り込んだ「懲罰召集事件(竹槍事件)」がありました。ロングもナチス指導部からの憎悪を浴びて最前線に送られたのでは、という説が根強くあるそうです。
新型コロナの流行で最近はあまり見かけなくはなりましたが、「ハグ」という軽い響きのあいさつは、いまや珍しくありません。でも、わが子を、いとしい人を、抱きしめる、という行為は人間の情愛と信頼の感情を表す最高のかたちではないか、と思うことが少なくありません。
「山ふところに深く抱かれる」という言葉もたまに耳にしますね。母親の懐かしい胎内で羊水にくるまれるような安心感を、母親の腕に抱かれる赤ん坊はひとしく感じているに違いありません。
さて、東西冷戦末期の1988年、当時の西ドイツを訪れた時です。街角のポスターにぎょっとしました。ともに高齢のソ連のブレジネフ書記長と東ドイツのホーネッカー議長が抱擁し、おまけに熱いキスまでかわしているじゃありませんか。いやいや、目をそむけたくなるほどおぞましい。その下には若く美しい男女がキスする写真。そしてキャプションには「あなたは、どちらのキスがお好き?」
牢固(ろうこ)とした東側陣営の長老支配を、痛烈にからかった政治ポスターだったと記憶しています。
抱擁といえば、1994年10月、大阪上空をヘリコプターで取材中に墜落事故で殉職した、元朝日新聞社カメラマンの黒澤清二郎君のことを思い出します。
黒澤カメラマンは、種痘の予防接種禍で全身まひと知的障害を起こした若い女性の取材で、母親のもとに通い詰めました。撮影の日、彼は言葉が話せない女性を温かく抱きしめて、意思の疎通をはかったのでした。
「うちの娘は男の人に抱かれたことなどなかったのですよ。熱が出るほどうれしかったと思います」。後日、発熱した女性を見舞った彼に、母親はそう話したそうです。同時代に、かくも心優しい男が生きていたことを、わたしは誇りに思います。
封切られたばかりの映画『MINAMATA―ミナマタ―』を観ました。大企業チッソが不知火海(しらぬいかい)に垂れ流した水銀で、大勢の住民が中毒症状に苦しみ、命を落とす水俣病。それを世界に向けて告発する伝説のカメラマン、ユージン・スミスを、俳優ジョニー・デップが演じています。
この映画の最後に、世界を揺さぶり、スミスの名をとどろかせた一枚の写真『入浴する智子と母』の撮影シーンが登場します。胎児性患者の上村智子さんのご両親のお気持ちをくんで、この写真は長く封印されてきましたが、亡きユージンの元妻アイリーンさんは今回の映画を機に、あえて公開に踏み切ったのでした。「水俣病を過去のものにしてはならない」という決意との間で、アイリーンさんにもきっと重い心の葛藤(かっとう)があったのでしょう。
薄暗い浴室。小さな湯船の中で母親に抱かれる、天井に目を向けて、もの言わない娘。その心情はうかがい知れませんが、悲しみの中にも、母娘を包む静かな、そして甘美で穏やかな時間が流れているように、わたしは思いました。
ゴルゴダの丘の十字架で磔(はりつけ)刑になって死んだ、わが子イエス・キリストのなきがらを腕に抱いて悲嘆にくれる聖母マリア。ミケランジェロの手になる、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の大理石彫刻「ピエタ」はつとに有名ですね。
水俣の母娘には、ピエタにもまして、神々しいものを感じます。
(日刊サン 2021.10.15)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。
木村伊量さん 新作 著書紹介
偶然出会った個性派揃いの3人の論客。 再会を果たした3人と元政治記者が ゴーギャンの画の答えを求めて繰り広げる知の饗宴の行方とは
【内容】 ゴーギャンの画の答えを、まだ私たち、見つけていないわよね――。ボストン美術館で偶然に出会った、年齢不詳の万学の王・如月、強烈な進歩肯定派の脳神経外科医・サチコ、南方熊楠を崇拝する精霊の森の隠者・りゅう。再会を果たした3人は、画の答えを見つけるべく、知の饗宴を繰り広げる。個性派ぞろいの論客たちをまとめるのは、元政治記者の散木庵亭主・ハヤブサ。三酔人文明究極問答の行方は如何に。