米欧の捕鯨船団は、ハワイを寄港地とするとともに、日本近海での捕鯨漁を継続するために日本にも補給港を求めたのです。鎖国をしていた江戸幕府に対し開国への圧力をかけてきます。マシュー・ペリー提督が率いる4隻の黒船が、江戸湾の入り口、浦賀沖に現れたのが1853年のことでした。
日本での捕鯨の歴史は古く縄文時代まで遡ります。調査によって発掘された史跡から、クジラを食用としていたことが明らかになっています。そしてクジラの骨は、縄文土器を作るときの台として使ったことも知られています。
飛鳥時代に入り日本に仏教が伝来すると、肉食が厳しく制限されるようになりますが、魚は食べられていました。当時はクジラは魚と思われていたので、鯨肉は貴重な食料となったわけです。
江戸時代になると、近海での捕鯨が盛んになることにより、鯨肉は庶民にも広く親しまれるようになりました。クジラ汁、竜田揚げ、煮込み、さらに生赤肉の造り、内臓まで食べられていたようです。また、赤肉や皮類は塩蔵して日本全国へと出荷されてもいきました。さらに、鯨ヒゲと歯はこうがい(女性の髷に横に挿して飾りとする道具)や櫛などの工芸品として、毛は綱に、血は薬に、脂肪は灯油や除虫剤に、骨を砕いて肥料にと、クジラを余すところなく利用していました。こうしてクジラは日本の庶民にとってなくてはならないものになり、食文化としても、生活を支える必需品としても全国に定着をしていきました。
網取り式捕鯨(小川嶋捕鯨絵巻):
日本捕鯨協会のウェブサイトより
当時の日本の漁師たちの捕鯨は近海で行われ、“鯨組”と呼ばれる捕鯨集団で行われていました。クジラを追い込み、モリを打つ15人乗り八丁艪(はっちょうろ)の快速艇勢子舟(せこぶね)、網を展開してクジラを拘束する網舟(あみぶね)、2隻組で捕獲したクジラを挟み込み曳航する持双舟(もっそうぶね)などの小舟で格闘したのです。
しかし、江戸時代後期に入ると、日本近海に押し寄せていた米国の捕鯨船によるクジラの乱獲で、資源枯渇の状態が顕著になったと言います。
日本人にとってハワイ先住民がそうだったように、クジラは“海の幸”としての天からの恵みであり、生き物をいただくことへの感謝の思いを忘れませんでした。クジラの供養塚や供養碑は、特に江戸時代のものがもっとも多く発見されていますが、背景には困窮する庶民生活に欠かせない食料であったからなのでしょう。
日本人にとって鯨食は、日本史の長きに渡って、さらに大戦後の食糧難の時代を救ってきました。鯨肉は栄養価が高く安価な食材であったため、庶民の食生活を支え、学校給食でも子どもたちの健全な発育のための大切な栄養源になったわけです。1960年ごろまでの日本国民一人あたりのクジラ食肉供給量は、牛肉、豚肉、鶏肉を上回っていたのです。