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コラム 世界のマグロを追いかけて男の旅 こぼれ話

海と人々の生活 Part 6 歴史を振り返る – その1

 四方が海に囲まれているハワイ諸島の先住民にとって、海は畏敬の対象であり、海に棲息する生き物のクジラへも崇敬の念を持っていたようです。ましてやクジラを捕らえるなどは、全く考えも及ばないことでした。ただ、浜辺に打ち上げられて命絶えたクジラは、神からの贈りものとして、クジラの骨に彫刻を施し神聖な工芸品としていたのです。

 1778年に海洋探検家ジェームス・クックを船長とするイギリス船がハワイ島に来航すると、それ以降のハワイは大きく変わっていきます。ハワイ発見のニュースが欧米に伝わることで、欧米から多くの人々が訪れるようになり、特に注目されたのが島に自生する香木の白檀(ビャクダン・サンダルウッド)でした。西欧では家具や彫刻の原木として珍重されました。やがて全島の伐採が続くと、当然に枯渇していくようになり、1830年代には、白檀のほとんどはハワイから姿を消してしまったと言います。

 次に白檀に代わってハワイに収入をもたらしたのは、捕鯨船が寄港するようになってからでした。19世紀に入ると、日本近海でマッコウクジラが発見されたことにより、アメリカ西海岸から捕鯨船が太平洋を横断し、大挙日本近海に押し寄せて来るようになりました。北海道から沖縄、小笠原周辺で捕鯨をしていました。日本近海までたどり着くための補給地として、ハワイは最適な中継地だったのです。

 捕鯨船は3~4月にハワイに寄港し、5月ごろに日本近海で操業し、9月ごろには再びハワイに立ち寄って、アメリカ本土に戻る航海を繰り返していました。オアフ島のホノルルや、マウイ島のラハナイは捕鯨基地として賑わい、最盛期には400隻もの捕鯨船が寄港したと言われています。当時のハワイ王国政府は、捕鯨についてはほとんど関心を示さなかったのですが、ただ寄港による経済的な恩恵を甘受していたのです。こうして1810年ごろから1880年ごろまで捕鯨船の寄港地として繁栄が続きます。

 捕鯨船は18世紀半ばから19世紀にかけて約100年間にわたり続きました。大西洋のクジラを捕り尽くすと、太平洋に進出してきました。捕鯨の目的は、燈油、潤滑油、ロウソク等の原料としての鯨油でした。鯨肉を食料とすることではなく、油分を取り除いた後の生肉は海中に捨てていました。こうして船倉に入れた鯨油を持ち帰っていたのです。

 やがて、一世を風靡した太平洋での捕鯨によって乱獲されたクジラが激減するようになります。さらに原油が採掘されるようになり、欧米における太平洋上での大規模な捕鯨時代は終焉を迎えハワイの寄港地としての役目も終わりを告げるようになります。その後のハワイでは、サトウキビの大規模な栽培が始まっていきます。

19世紀の南洋での捕鯨の様子を描いた石版画(ウィキペディア

STORY 215

永井 修二

北海道出身、在米38年 鮪関連水産会社34年勤続

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