JR上野駅の15番線と16番線ホームの間に、石川啄木の歌碑が立っています。
「ふるさとの 訛(なまり)なつかし 停車場の 人ごみの中に そを 聴きにゆく」
北に向かう夜汽車は旅情を誘います。岩手県出身の啄木の胸には、ふるさとの言葉に望郷の思いが募ったのでしょう。昭和の東京オリンピックの年、1964年に大ヒットした青森県出身の歌手、井沢八郎の「ああ上野駅」。さびの部分の「上野は おいらの 心の駅だ」のセリフは、高度成長期、集団就職で夜汽車に揺られて上京した若者たちの心をわしづかみにしました。
お国なまりと言えば、新聞社の政治記者だった頃のことを思い出します。
自民党田中派の重鎮、二階堂進副総裁と幹部の渡部恒三氏が二人で何やら話し込んだ後のこと。部屋を出てきた渡部さんが開口一番、「いやあ、二階堂さんの薩摩弁(大隅弁)はよくわかんなくてなあ」。続いて出てきた二階堂さんは「渡部君が何を言っとるのか、会津弁はさっぱりわからんよ」。幕末と明治初めの戊辰(ぼしん)戦争で激突した薩摩と会津。その末裔(まつえい)二人のお国なまりまる出しの、かみ合わないやりとり。笑いを抑えられませんでした。
薩摩と会津の「恩讐(おんしゅう)」を超えて結ばれたのは、明治陸軍の大立者、大山巌(いわお)と、捨松(すてまつ)夫人です。西郷隆盛の縁者の大山は会津戦争で官軍の指揮をとります。絶え間ない砲火の中、会津の鶴ケ城天守閣に立てこもったのが国家老(くにがろう)の娘山川捨松でした。
後に、「西洋かぶれ」を自認する大山がアメリカで教育を受けた捨松にひと目ぼれして交際を始めたものの、お互いの薩摩弁と会津弁がちんぷんかんぷん。フランス語で会話して初めて打ち解けた、というエピソードが残っています。捨松は結婚後に「鹿鳴館(ろくめいかん)の名花」とうたわれます。
近代国家の特徴のひとつは、お国なまりの方言が追いやられ、標準語に統一されていったことでしょう。帝国主義時代の英国ではナショナリズムの興隆とともに、「純正英語」が奨励(しょうれい)されました。イングランドに併合された小国ウェールズの人たちは、ウェールズ語を使うことが禁じられ、これにそむいた子どもは「罰札」を首にかけられたのでした。
「国民の統合」の錦の御旗のもとに、明治期の日本でも、うり二つのことが起こりました。沖縄本島や南西諸島では、標準語を使うようにお触れが出され、違反した者には「方言札」(黒札)を首からぶらさげさせて、辱(はずかし)めたのです。民俗学者の柳田国男がこれを厳しく批判していますが、権力的な発想はいずこも同じなのですね。
先日、わたしの故郷、香川県から名物の「天ぷら」(魚のすり身の練りもの)が届きました。その包装紙がちょっと感動的。個性的な讃岐弁の数々がぎっしりと書き込まれているのです。
今では耳にすることが少なくなった方言ですが、「おっきょいびびがおるのお。三匹いた」(大きな魚がいるね。三匹ちょうだい)、「なんがでっきょんな?」(何をしているの?)と、讃岐弁まる出しだった亡き祖母の顔が浮かびます。ほっこり、まったり。瀬戸内の、のどかな風土の産物でしょうか。
静岡県の伊豆半島をレンタカーでドライブして、たまげました。その車の「カーナビ」がなんと関西弁仕様。エンジンをかけると「ほな、そろそろ行こかあ」。交差点に差し掛かると「あと100メートルで右折、と言うとる間に、もう50メートルになったわ」。目的地に近づくと「ぼちぼち着くでえ」。車窓の景色を楽しむどころか。でも、カーナビのおっさんの道案内は、おもろかったなあ。
この国の公共放送のニュースときたら、おつに澄ました、感情と抑揚に乏しい標準語ばかりでつまんない。たまにローカル局のニュースで、お国なまりが抜けないアナウンサーに出会うと、嬉しくなってしまいます。
いっそうのこと、国会審議では標準語を禁じて、みな、出身地のお国言葉を使うことにしたらどうでしょう。「総理、おまん、まっこと、なめたらいかんぜよ」「んだ、んだ。おらもそう思うべ」。がぜん、言論の府は生気を取り戻し、政治への国民の関心も高まるのは請け合い、とはなりませんか。
(日刊サン 2022.11.25)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。