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木村伊量の ニュースコラム

【ニュースコラム】地獄の「インパール作戦」日英両国兵士の和解

 皇居の石垣を濡らして、冷たい雨がそぼ降っていました。10月9日、東京・千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開かれた第2次世界大戦の北部ビルマ、インド国境地帯で血みどろの激戦を演じた旧日本軍と旧イギリス軍の関係者による「合同慰霊祭」に、わたしも参列しました。

 1944年、食糧、弾薬の補給もないまま、日本陸軍が要衝コヒマを経てインパール攻略をめざした無謀きわまりない戦いは「インパール作戦」として知られています。慰霊祭にはイギリス軍兵士の生き残りリチャード・デイ氏(97)はじめ、平松賢司元駐インド大使(前駐スペイン大使)、ジュリア・ロングボトム駐日英国大使らも参列しました。

 泥沼の塹壕(ざんごう)の中で銃を構えていた日本軍兵士が、自然発生的に「埴生(はにゅう)の宿」の歌を歌い始めると、ジャングルの向こうにいたイギリス軍の陣地からもこの曲の歌声が聞こえてきて、合唱となって夜空に響いた、というエピソードが残っています。この曲は、もとはイギリス人のHenry Bishop氏が作曲したイングランド民謡で、「Home Sweet Home」として歌い継がれています。合同慰霊祭では参列者全員でこの歌を合唱しました。

 わたしが、この戦場での敵、味方の関係を超える「和解の集い」を知ったのは、新聞社のヨーロッパ総局長としてロンドンに赴任していた2006年のことでした。1942年に出征し、インパール作戦に参加、戦後は総合商社の丸紅のロンドン支店などで勤務した平久保正男さんにうかがった極限状態の戦場での生々しい体験談は、想像を絶するものでした。

 平久保さんは歩兵第58連隊の主計士官として、食糧調達に奔走。50キロを超える重い荷物を背負う日本軍兵士たちは、イギリス軍の空襲を避けつつ、連夜24キロを歩くのですが、幅わずか80センチの山道を踏み外して次々と谷底に落ちていきます。平久保さん自身も100メートルのがけ下に転落し、奇跡的に助かったのでした。

 4か月後に撤退が始まってからも餓死やマラリアやアメーバ赤痢による病死が続き、多くは20代の兵士が空しく異国に命を散らしました。平久保さんは終戦とともにイギリス軍の捕虜となりますが、日本だけでなくイギリスにも過酷な運命に見舞われたおびただしい数の、自分と同じような年ごろの若い兵士がいたことに、改めて気づかされます。

 戦後、平久保さんが丸紅を退社した1983年、イギリスのある元軍人に出会います。コヒマで日本軍の銃弾を7発も体に受けた方でしたが「恩讐(おんしゅう)を超えて、元日本軍の方たちと和解をしたい」。

 以来、平久保さんが中心となって現在の「ビルマ作戦協会」(BCS)がつくられ、2008年からは、やはり父親がインパール作戦に従軍したマクドナルド昭子さんが平久保さんの後を継いで、合同の慰霊祭やさまざまな和解の活動を行ってきたのです。

 ロンドンでお目にかかった時、平久保さんからうかがった言葉が忘れられません。「I cannot forget, but I can forgive.(忘れることはできないが、許すことはできる)

 日本と韓国の間では、過去の植民地支配に伴う歴史和解の問題が、なおくすぶり続けています。

 第二次世界大戦が終結してから50周年にあたる1995年9月、ホノルルのパンチボール米国立太平洋記念墓地で、当時のクリントン大統領も出席して戦没者の追悼式が開かれました。式典には大戦中、アジア・太平洋地域で戦った米退役軍人を中心に、27の国・地域から7千人が集まりました。

 一方で、式典に顔をそむけたハワイの退役軍人もいました。取材した一人はフィリピン戦線で日本軍の捕虜になり、「バターン死の行進」と呼ばれた過酷な体験を経て、日本に連行されて天竜川でのダム建設の強制労働につかされました。彼の口からは「日本政府からの正式謝罪」を求める言葉が続きました。

 イスラエルとパレスチナを実効支配する武装組織ハマスとの間の戦闘が深刻な事態を迎えています。イスラエルのラビン首相と、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファタ議長が、ワシントンのホワイトハウスで歴史的な和平合意に調印したのは1993年9月のことでした。

 あの日から30年、和解への道の険しさを思わざるを得ません。

(日刊サン 2023.10.27)

木村伊量 (きむら・ただかず)

1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。

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