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木村伊量の ニュースコラム

ざわわ ざわわ ざわわ

歌手の森山良子さんのコンサートに足を運んだときのことです。「ざわわ ざわわ ざわわ」と始まる『さとうきび畑』の歌に身を乗り出し、ハンカチで声を押し殺しながら、嗚咽(おえつ)している初老の男性を見かけました。

〽 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽ざしの中で

〽 ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない悲しみが ざわわ ざわわ ざわわ 波のように押し寄せる 風よ悲しみの歌を 海に返してほしい 夏の陽ざしの中で

故寺島尚彦さんが作詞作曲した『さとうきび畑』について、声楽家の佐藤しのぶさんはエッセイでこう綴っています。「寺島氏は34歳のとき、初めて復帰前の沖縄を訪れ、激戦地であった南部・摩文仁(まぶに)のさとうきび畑に立った。そして目前に広がる自然の美しさとは裏腹に、今も多くの方が土の下に眠るさとうきび畑の風に、戦没者たちの怒号と嗚咽を確かに聞いたのだという」

「激しい地上戦のおきた沖縄の悲しみ、肉親を失った子供の叫び。人の心の悲しみをうたった言葉は心深く刻まれ、そしてこの曲のテンポとフレーズは人間にとってどんな過酷な時代があろうとも自然はいつも変わらずそこに在ることを揺るぎなく主張する。私はこの名曲を歌い続けていきたいと思った」

寺島さんの造語である「ざわわ」は、祈りの言葉でもあるかのように66回反復されます。コンサート会場のあの初老の男性の胸を、どのような悲しみの風が吹き抜けていたことでしょうか。

人は誰しも、いつまでも慈(いつく)しみたい自分だけの「心の風景」を持っているのだと思います。わたしにとっては、ハワイで見た荘厳な夕暮れであり、小雨に濡れたヨーロッパの古都の石畳であり、近くの里山のこんもりとした鎮守の杜であり……。次々と脳裏に浮かび上がってきます。

NHKのBS放送に、俳優の火野正平さんが自転車で全国各地をめぐる『にっぽん縦断 こころ旅』という番組があります。視聴者から寄せられた手紙をもとに、その人の心に残る風景を再訪します。今は亡き夫と初めてデートした懐かしの灯台、きついクラブ活動の帰りに涙して歩いた土手の小道……なにげなくとも、それぞれの人にとっては、珠玉の宝石のようにキラキラと輝く風景は永遠に美しく、切なく、心に迫ります。

わたしが愛読する故葉室麟(はむろ・りん)さんの小説に『秋月記』(あきづきき)があります。かつての秋月藩の重鎮で、政争に巻き込まれて失脚し、流罪から戻った宮崎織部を、やはり罪に問われた主人公の間余楽斎が訪ねます。

織部「ひとは美しい風景を見ると心が落ち着く。なぜなのかわかるか」

余楽斎「さて、なぜでございますか」

織部「山は山であることに迷わぬ。雲は雲であることを疑わぬ。ひとだけが、おのれであることを迷い、疑う。それゆえ、風景を見ると心が落ち着くのだ」「おのれがおのれであることにためらうな。悪人と呼ばれたら、悪人であることを楽しめ。それが、お前の役目なのだ」

最近、佐藤春夫の名作『田園の憂鬱(ゆううつ)』を再読していて、「松は松として生き、桜は桜として、槇(まき)は槇として生きた」という文章に出くわしました。これも宮崎織部が言っていたことと、重なるのかもしれませんね。

NHKの「回し者」と思われては心外ですが、やはりBSの番組で、登山家の田中陽希(ようき)さんが日本列島の三百名山をひと筆書きで歩きとおす「グレートトラバース3」もわたしのお気に入りです。前人未到の冒険に挑むタフな精神と健脚は驚きですが、それにもまして感動するのは、田中さんが人知れずひそやかに咲くチングルマ、シモツケソウといった高山植物や、雷鳥などの珍しい生き物に、細やかな愛情を注いでいることです。

わが家のベランダから、秋空にゆったりと浮かぶ雲を眺めながら、織部の言葉を思い出すことが少なくありません。雲だって、高山植物だって、誰かに見られることなんか意識せず、孤独であることを嘆いたりもしないでしょう。

秋を歓ぶ虫たちの声は日増しに大きくなり、路傍で咲く草花たちも、いのちが輝いています。

(日刊サン 2021.10.01)

木村伊量 (きむら・ただかず)

1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。

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