どうも、人や場所の名前がすぐに出てきません。「ほら、あそこのあれが」と、家人や友人との会話が成立しないこともしばしば。加齢によるボケが進んでいるのか、それとも認知症に冒されているのか。
気になって先日、簡単な「脳ドック」を受診しました。結果は、脳梗塞、脳出血、脳委縮などの兆候はいまのところ見られない、とのお墨付き。気をよくして新聞社時代の先輩に話すと「あの狂気のプーチンだって、脳ドックの検査は正常かもしれないよ」ですって。へらず口に呆れましたが、考えてみると、たしかに脳の正常は、精神の健常を保証するものではないのかもしれません。
哲学者の梅原猛さんに生前、京都のホテルで弘法大師空海について話をうかがったことがありました。その折に話題になったのは、空海の「三界の狂人は狂せることを知らず」(『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』)という言葉です。精神に異常をきたしている人は、えてして自分の狂気には気づかないものです。
日本の歴史の中で、もっとも深く「狂」と向かい合ったのは誰かーーそんな話にもなりましたが、梅原さんは迷うことなく、14世紀の室町時代に能を大成した世阿弥(ぜあみ)の名を挙げました。後醍醐天皇の盲目の皇子を主題とした『蝉丸(せみまる)』には、髪が逆さに生えた「逆髪(さかがみ)」という皇女が登場します。容貌がこの世のものと思えないほど醜い彼女は、狂女と疎(うと)まれて貴族社会から追われますが、逆髪は「狂人なれども心は(水が清らかに澄んだ)清滝川と知るべし」と言うのです。
世阿弥がここで問うたのは、正常(正気)と異常(狂気)の間には、世の中が思うほどの隔てはなく、ときには価値観が逆転することだって珍しくない、ということなのでしょう。
わたしたちが生きる科学技術万能の近現代とは、ひたすら理性(正気)をもって、中世の怪しげな不条理(狂気)を封じ込めてきた時代、だと言われてきました。しかし、実際はどうでしょう。「理性の逆流」ともいうべきファシズムやスターリニズムの狂気が吹き荒れたのは20世紀のことです。21世紀になった今も、ウクライナ戦争で世界が目撃しているのは、ロシアのプーチン大統領の狂気にほかなりません。
1979年公開の米ハリウッド映画の話題作に、フランシス・コッポラ監督の手になる『地獄の黙示録(もくじろく)Apocalypse Now』があります。カンボジアの密林の奥深くに独立王国を築いて君臨し、米軍の命令を無視し続ける元エリート軍人のカーツ大佐を、密命を帯びた陸軍将校が追い詰め、暗殺する物語でした。あらすじは荒唐無稽(こうとうむけい)ですが、小国ベトナムを軍靴で踏みにじる狂気の大国アメリカが、狂気の大佐を殺すことを正当化できるのか。鋭い問題意識が観るものを圧倒しました。
喜劇王のチャーリー・チャップリンが言った通り、「一人を殺せば犯罪者だが、戦争で百万人を殺せば英雄」。凶悪で卑劣なテロリストも、仰ぐべき殉教者となるのです。時代や宗教、そして社会の結びつきの薄れを背景に、狂気をめぐる価値観も揺れ続けているように思えてなりません。
整然と秩序だっているように見える都会にも、狂気は身をひそめています。「だれでもいいから、人を殺して死刑になりたかった」。最近、15歳の少女が渋谷の路上で見知らぬ母娘をナイフで刺して重傷を負わせた事件がありました。少女を無軌道な狂気に駆り立てたものは何だったのでしょう。
でも、狂気は創造性とは実は紙一重。世界的な起業家ノーラン・ブッシュネルさんは、ビジネスの世界では「クレージー」な人物を雇うべきだと主張し、「風変わりなアイデアやぶっ飛んだコンセプト、型破りな意見をいつも出す社員たちが醸(かも)しだす狂気」を重んじるのです(松本卓也『創造と狂気の歴史』)。
音楽家や画家にしても、内にある種の狂気を抱かないと、世界を突破する力は得られない、というのはわかる気がします。温厚で常識的な芸術家が、芸術家であったためしはないし、新たな地平を開くことはないでしょう。
時代は移れど、人間に狂気はつきもの。狂気にふたをして、ただ押し込めるのではなく、それを豊かな創造力に転化する。なかなか難しいことですが、そこに文明の未来を託するほかありませんね。
「何しようぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂え」(閑吟集)。願わくば、そうした自在な境地に遊びたいものです。
(日刊サン 2022.9.9)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。