日本の大手通信事業NTTグループは、分散型ネットワーク社会の到来に対応するため、日本全国どこからでもリモートワークによって働くことが可能になる制度「リモートスタンダード」を7月から導入する、と発表しました。
さしあたり、グループの主要会社の約5割に当たる3万人が対象。リモートと出社の「ハイブリッドワーク」が前提になるようですが、出社時には通勤手当も支給されるそうです。
朝夕の通勤地獄にもまれることなく、自宅にいながらにして、オンラインで仕事ができる、というのは、古い会社人間・働きバチ世代には想像もできないことです。もちろん職種はまだまだ限られるでしょうが、必ずしも通勤圏に家を持つ必要がなく、家族との団らんや趣味にもたっぷり時間をさくことができる、となるとライフスタイルだけでなく、人々の価値観や人生観も変わってきますよね。これも長引く新型コロナウイルス禍での巣ごもり生活が生み出した「副産物」なのでしょうか。
ライフスタイルの変化ということで言えば、最近、耳にするようになったのが「トカイナカ」という造語です。物価がべらぼうに高く、住居も狭く、ごみごみセカセカした都会の暮らしはごめんだけど、交通が不便で近くにコンビニひとつない、陸の孤島のような田舎暮らしにも二の足を踏む。都会とド田舎のちょうど真ん中あたり、プチ田舎に生活の基盤を構えようという志向の人たちが、若者やシニアを問わず、じわりと増えているというのです。
それはそうかもね、と共感するところはありますが、なんだか中途半端で、いじましい感じがしないでもないなあ。きょうは、都会暮らしにきっぱりと見切りをつけて、田舎どころか、見知らぬ国のド田舎で悠然と第二の人生を楽しむ「規格外」の国際人をご紹介しましょう。
土野繁樹(ひじの・しげき)さん(80)。成田空港を飛び立ち、飛行機と列車を乗り継いで24時間余、南フランスのドルドーニュ県の片田舎で、フランス革命前の築200年以上という石造りの邸宅に腰を落ち着けて、20年の歳月が経ちました。
真珠湾攻撃があった1941年に、日本の植民地だった韓国の釜山に生まれ、戦後は山口県下関で生活。米国留学などを経験し、幅広い国際人脈と深い知見を買われて、「ニューズウィーク日本版」の編集長などを務め、編集者・ジャーナリストとしてのキャリアを積んできました。ところが、驚いたことに、日本で25年の結婚生活を送ったスウェーデン人の奥様の「残りの人生はヨーロッパのどこかで庭のある大きな家に住んで暮らしたいわ」という希望をかなえて、あっさりと日本脱出を決断。ろくすっぽフランス語も話せなかったのに、人口350人の小さな村に移住したのでした。
小高い丘の上に立つ住まいは、本館と来客用の別館を合わせて150坪の広さ。敷地内には2000坪の庭が広がっています。
同じ村に移住してきた英国、イタリア、モロッコなど様々な国籍の人々とも交流を深め、「江戸時代並みのスローライフ」(土野さん)を満喫する様子は、近著の『フランスの田舎から世界を見ると ある編集者の半生記』(ブイツーソリューション)をどうかご覧あれ。美しいカラー写真もふんだんに盛り込まれた、楽しく洒脱(しゃだっつ)な読み物です。
この5月、一時帰国された土野さんと銀座で会食しました。この方の若さと、尽きぬエネルギーの源は、初来日した美人で知的な奥様を見そめて、知り合って1週間で横浜の「港の見える丘公園」でプロポーズしたというエピソードにうかがわれる決断の速さ、そして、国境や文化、民族の壁をひょいと乗り越える精神の自由さ、しなやかさにあるのだと痛感しました。
異国での田園生活、といっても、ただ静かなだけの隠居生活を送っているわけではありません。各地を旅し、世界の最新事情に目を凝らし、歴史の鼓動に耳を澄まし、いまなお現役の気鋭のジャーナリストとしてブログなどを発信し続けています。「人生100年時代」のひとつの理想型が、異郷をわが故郷とする、土野さんご夫妻なのかもしれません。
遥かに、フランスの土野さんご一家の豊かな暮らしをしのびつつも、こちらは明日も、明後日も、記録的な酷暑の中を、電車を乗り継いで都心に出ていかなければなりません。このコラムの締め切りも迫ります。フー。余裕のあるコクサイジンは、いまだ夢のまた夢。
(日刊サン 2022.7.8)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。