さて今回は、弘法大師にまつわることわざのトリビアでTake a Break です。弘法大師とは平安時代初期の僧、空海のことで、「弘法」は921年に醍醐天皇から贈られた諡号です。高野山金剛峯寺や東寺を開山した真言宗の開祖としてのみならず、書家としても知られる空海は、嵯峨天皇、橘逸勢と共に「三筆(さんぴつ)」のひとりに数えられています。
「弘法筆を選ばず」・・・
実は選んでいた弘法大師
「弘法筆を選ばず」とは「弘法大師のように優れた書家にとって筆の良し悪しは関係がない」、つまり、本当の名人にとって道具の良し悪しは関係ない、という意味のことわざです。しかし、実は空海は職人に注文して作らせた自分専用の筆を愛用し、書体によって何種類かを使い分けていたと言われています。
「弘法も筆の誤り」の由来
弘法大師にちなむもう1つのことわざは「弘法も筆の誤り」。どんなに優れた技術の持ち主でも間違うことがある、という意味で使われています。『今昔物語』には、このことわざに関する次のような逸話が治められています。空海はある時、宮中にあるいくつかの門の額を書くよう天皇から勅命を受けました。そのうちの1つ、大内裏の応天門に掲げる看板を書いて門に掲げた際、「亦、応天門ノ額打付テ後、是ヲ見ルニ、初ノ字ノ点既ニ落失タリ」、つまり、応の字の最初の点がないことに気づきました。どうやら点を打つのを忘れてしまったようですが、額はもう門の高いところに打ち付けられていて、簡単に降ろせそうにもありません。そこで空海は、「応」の点がない位置をめがけて筆を投げつけ、見事に点を打ったといいます。この逸話から「弘法も筆の誤り」ということわざが生まれました。
留学前後の真跡
803年、空海は遣唐使の一員として唐に留学し、密教のみならず、薬学、土木工学など様々な分野について学びました。書は韓方明という書家のもとで勉強したのですが、楷書、行書はもとより、草書、篆書、隷書、飛白と全ての書体に優れていたため、すぐに能書家として名を馳せるようになったと言います。上にご紹介している空海の真跡は、唐への留学前に書かれた駢儷体(べんれいたい)の書と留学後に書かれた草書体のものです。書体は異なりますが、比較してみると、前のものは力強く勢いがあり、後のものは筆跡が柔らかく余裕のある印象です。
聾瞽指帰(ろうこしいき)
797年、空海が24歳の時に書いたもので、出家を反対する親族に宛てた「出家宣言」と言われています。高野山金・剛峯寺(和歌山県)蔵、国宝。
風信帖(ふうしんじょう)
正式名称は『弘法大師筆尺牘(せきとく)』。812年頃に空海が最澄に送った書状3通がまとめられたもので、『風信帖』という名前は1通目の書き出しの句「風信雲書」にちなんでいます。元々は5通でしたが、1通は盗難に遭い、もう1通は1593年、豊臣秀吉の甥の豊臣秀次に献上されました。東寺(奈良県)蔵。
トリビアでTake a Break
(日刊サン)
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