だいぶ前のことです。南国のギラギラとした太陽のもと、ワイキキの浜辺ではしゃいでいる日本からの若い女性観光客に、日本のテレビ局がマイクを向けていました。
「パールハーバーってさ、聞いたことある?」「ええーっ、パールは真珠でしょ。どこだっけ、それ」
いやはや、歴史を世代を超えて伝えるのは、いかに難しいことか。 わたしが太平洋戦争の発火点、オアフ島のパールハーバーを初めて訪れたのは1990年の夏でした。日本軍機の奇襲攻撃で大破炎上し、着底した戦艦アリゾナをまたぐように建てられた白亜の記念館を訪ねました。錆びついた船体からまだ重油が流れ出ており、「アリゾナの涙」と呼ばれていました。 記念館には、奇襲の空母機動艦隊を率いた南雲(なぐも)忠一海軍中将の肖像写真もありましたが、ガラスの表面がクギのようなものでひどく傷つけられていたのを、よく覚えています。
第二次世界大戦が終結してから50周年にあたる1995年9月、ホノルルのパンチボール米国立太平洋記念墓地で、当時のクリントン大統領も出席して戦没者の追悼式が開かれました。式典には大戦中、アジア・太平洋地域で戦った米退役軍人を中心に、27の国・地域から7千人が集まりました。会場は小雨にぬれ、やがて南国のまぶしい日差しが照りつけました。 新聞社のワシントン特派員だったわたしは、この式典を取材し、退役軍人の皆さんの話を聞きました。なかでも強い印象を残したのは、式典の前夜、ホノルルのホテルで開かれた、予科練出身の旧日本海軍パイロットらでつくる「海原(うなばら)会」と、米国の退役軍人ら計400人による懇親会でした。 空母「加賀」から発進し、米戦艦ウェストバージニアを雷撃、撃沈した海原会会長の前田武さん(昨年、98歳で死去)と、同艦の乗組員で甲板から雷撃を目撃したリチャード・フィスクさん(2004年に82歳で死去)が再会し、固く抱き合ったのです。
「今ではいい友だち同士だ。わたしの気持ちがわかるかい」。フィスクさんは涙ぐんでいました。
一方で、式典に顔をそむけた退役軍人もいました。取材した一人はフィリピン戦線で日本軍の捕虜になり、「バターン死の行進」と呼ばれた過酷な体験を経て、日本に連行されて天竜川でのダム建設の強制労働につかされました。彼の口からは「日本政府からの謝罪」を求める言葉が続きました。
和解を探る動きの一方で、戦争がいかに深い傷跡を人びとに残すか。思い知らされたことがあります。
大西洋に面した米国でもっとも小さな州、ロードアイランド州。幕末に黒船で日本に来航したペリー提督の故郷です。同じ年に州都プロビデンスの退役軍人協会本部を訪れると、数人の幹部から口々に「忘れてもらっては困る。パールハーバーを不意打ちにしたのは日本であり、米国ではない」と訴えられました。
主要な海軍基地がある同州は大戦中、海軍を中心に多くの犠牲者を出し、全米で唯一「対日戦勝記念の日」(VJデー)が祝日に定められていました。協会の幹部は一様にその意義をまくしたて、戦後半世紀を経ても、日本へのわだかまりはなお強いように感じました。
プロバンス市のローカルラジオ局を訪ねた折のこと。女性ホストから「VJデー」について意見を求められました。「日米両国の和解、相互理解の点からも、そろそろこうした祝日はやめるべきではないか」という趣旨の話をしたところ、わたしのこの発言が放送され、ネット時代の今の言葉でいうなら「大炎上」。ラジオ局には抗議の電話が殺到した、と聞きました。
取材を終えてワシントンに戻った後にも、何通かの抗議の手紙が舞い込みました。その中には、「ジャップは風船爆弾を飛ばして多くの米国人を殺した。民族浄化に手を染めたではないか」という内容のものもありました。もちろん、そんな事実はないのですが、戦火を交えた国や人びとの和解が、口で言うほど簡単ではないことを痛感したものです。
来年はパールハーバーから80年。このコロナ禍が落ち着けば、鎮魂の思いを新たに、久々に訪ねてみようと思います。
(日刊サン 2020.12.04)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。