この秋はよく、夜空の月を眺めました。10月下旬には、伊豆の山中から、煌々(こうこう)と輝く十三夜、十四夜、十五夜の月を仰ぎ見ました。
〽うさぎ うさぎ なにみてはねる
じゅうごやおつきさま みてはねる
月を見ると、この童謡を思い出します。わたしは大学で「いのち」をめぐる古今東西の思考をたどる授業をしていますが、月にうさぎが住んでいるという説話の由来を講じることもあります。古代インドの仏教説話「ジャータカ神話」が元になって、日本でも『今昔物語集』に編まれ、各地の民話として伝承されてきたものです。
うさぎ、キツネ、サルが仲良く暮らしていたところへ、やせ衰えた旅の老人が通りかかります。キツネは魚を、サルは木の実をとって老人に施しますが、うさぎには何も与えるものはありません。そこで、うさぎは「わたしを食べてください」と言い残し、煮えたぎる湯の中に身を投じたのでした。
老人は実は帝釈天(たいしゃくてん)の仮の姿で、自らのいのちを顧みずに老人を救おうとしたうさぎの清らかな心を永遠に尊ぼうと、うさぎを月に送った、という哀しく美しい物語です。月うさぎは日本では「餅つき」をしていると語られてきましたが、古代中国では、杵(きね)と臼(うす)で不老不死の薬を調合している姿だとされたそうです。
かぐや姫が満月の夜、「わたしは、ほんとうは月の都に住んでいるのです」と明かし、天の羽衣をまとって月に帰っていく『竹取物語』は平安時代に生まれたSFのはしりでしょうか。
のどかな世界から、いっきょに目を醒まされたのは1969年のアポロ11号による人類初の月面着陸でした。大分の高校1年生だったわたしは、テレビ画面にかじりついて、その瞬間に息をのんだものです。「That’s one small step for a man, one giant leap for mankind.(これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である)」。ニール・アームストロング船長の名言は、いまも脳裏に残っています。
それから半世紀以上が経ち、地球から38万キロ離れた月での資源探査や宇宙開発への関心がかつてないほど高まっています。
最初に「のろし」を上げたのは中国でした。2007年に月面探査衛星「嫦娥(じょうが)1号」を打ち上げたのを手始めに、2019年には同4号が初めて月の裏側への着陸に成功しました。中国は2028年ごろには月面研究基地を完成させる計画で、宇宙ステーションの建設を含めて、いきなり世界トップクラスの宇宙開発国に躍り出た印象です。
中国に対抗して、アメリカは2017年にNASA(航空宇宙局)が主導する「アルテミス計画」を打ち出し、2025年以降にふたたび宇宙飛行士を月面に送り出す予定です。将来的には有人火星探査のための「中継基地」として月面を利用する構想を描いています。アルテミス計画には、日本の宇宙ベンチャー企業ispaceやトヨタも参加しています。
最近、注目を集めたのはインドでした。今年8月、水資源がある可能性が指摘されている「月の南極」への着陸に成功。2040年までに有人月面探査に乗り出す計画です。
新たなフロンティアを求めて、にわかに勢いづく月面探査。その背景には、どうやら、月に眠る「希少資源」の確保に向けた各国の思惑が渦巻いているようです。いずれ、水を電気分解して水素ガスと酸素ガスをつくり出し、ロケット燃料として「現地調達」する構想も取りざたされているのです。
地球の南極には平和利用や領有権の凍結などを定めた多国間条約の「南極条約」があります。宇宙についても「宇宙条約」で個別国の領有権は認められていませんが、月について開発の是非などを定める国際的な取り決めは何もなく、「早い者勝ち」にゆだねられているのが実態です。
エネルギーをめぐる各国の熾烈(しれつ)な競争が地上では絶えないというのに、月世界を舞台に、各国が資源獲得にしのぎを削るような愚かな未来は考えたくもありませんね。
月うさぎも、のんきに餅つきなどに興じてはおられませんぞ。
(日刊サン 2023.11.17)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。