少し前のことですが、ネットショッピングで「簡易版 星座早見表」なるものを買いました。
コロナ禍も続くし、この秋は星空を見上げて、ロマンあふれる星座の物語に思いをはせよう、と考えたのです。ところが、9月は雨と曇天続き。10月になってようやく秋らしい天候が続きましたが、それでも大都会横浜の郊外にあるわが家からは、ビルの灯や車のライトに邪魔をされ、きらめく満天の星を望むのは、なかなか難しそうです。
近代、とりわけ明治から後の日本は、何かに憑(つ)かれたように「闇」を追い払ってきたのですね。啓蒙とはまさに「暗さを追放し、闇を啓(ひら)く」こと。まばゆい都会の光こそは、文明開化のあかし、とされてきたのです。東京の夜空はどんどん明るくなり、都心の麻布にあった東京天文台は観測に支障が出て、1924年(大正13年)には郊外の三鷹に引っ越しています。
でも、少し時代をさかのぼると、かつて世界に冠たる大都市だった江戸の八百八町は、まことに薄暗かった。100ワットの白熱電球の照度は200ルクスくらいなのですが、サムライ屋敷の畳の部屋の行灯(あんどん)はせいぜい10ルクス。『夜は暗くていけないか――暗さの文化論』の著書がある乾(いぬい)正雄・東京工業大学名誉教授は「夜、部屋のまん中で侍が手紙を読むシーンが時代劇に出てきますが、あれは無理。よほど行灯に近づかないと字は読めません」。
室内でもそうなのですから、これが街灯もない往来に一歩出ると、行きかう人の顔もよくわからなかったみたいです。どうりで、追っ手をかわして、屋根から屋根へ飛び移った盗賊の鼠小僧(ねずみこぞう)も、なかなかお縄にならなかったわけです。
幕末の竹内遣欧使節団も、明治の岩倉使節団も、そろってヨーロッパの大路やホテルを照らすガス灯に感嘆の声を上げました。竹内使節団の一員だった若き日の福沢諭吉は、滞在先のホテルに触れて「無数のガス灯は室内廊下を照らして日の暮れるを知らず」と『福翁自伝(ふくおうじでん)』に書きとめています。
しかし、21世紀の東京の盛り場の「不夜城」(ふやじょう)のネオンや人工の光の洪水といったら、ちょっと度を越しているように思います。目がくらまんばかりの光は、人間本来の平衡感覚を失わせる気がしてなりません。昭和8年に、日本文化の陰影をめでる『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』を書いた文豪・谷崎潤一郎が、現代の夜の新宿・歌舞伎町や六本木を歩いたら、きっと卒倒するのではないでしょうか。
在米中に、アメリカ先住民研究の第一人者だった阿部珠理・元立教大教授(故人)に聞いた話を思い出します。
スー族の名で知られるラコタ族は、もともと文字を持たなかったそうです。タタンカと彼らが呼ぶバッファロー狩りのない冬の日々、焚火(たきび)のまわりに集まって来る子どもたちは、祖父や祖母、メディスン・マンや長老が語る物語を、星降る夜空を仰ぎながら聞き入ったのでした。冬はしばしば「物語の季節」と呼ばれました。
物音ひとつしない静寂(しじま)のなかで、焚火の炎が揺れ、闇の中に座る子どもたちの輝く顔を照らし出す。そこに美しい物語が流れる。想像しただけでも平和な風景ですね。物質的な豊かさでは現代文明に暮らすわたしたちに及ばないにしても、精神的な豊かさという点では、彼らにかなわないかもしれません。ちょっと憧れてしまうのはわたしだけでしょうか。
そういえば、2年前の夏、うっそうとした森に囲まれた鹿児島県の霧島神宮の境内で開かれた「かがり火コンサート」に参加したことがありました。漆黒(しっこく)の闇の空から大粒の雨が落ちる中、シンセサイザーの響きに心を奪われました。
ハワイの島々に広がる闇も素晴らしい。30年前、初めて訪れたカウアイ島で、エルビス・プレスリーの映画『ブルーハワイ』の舞台になったホテルに泊まりました。その2年後、ハリケーン・イニキの襲来で壊滅的な被害を受け、昔日の面影はないようですが、闇の中でパームツリーの木影が、そよ風にゆったりと波打つように揺れる光景は、いまも忘れられません。
闇を追放するのが文明なのか。いまや闇を残すほうが、文明の名にふさわしいのではないか。そんな思いが、波のように押し寄せてきます。
(日刊サン 2020.11.06)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。