横浜郊外のわたしのマンションの前には、森に包まれた大きな公園があります。あれほど、にぎやかに鳴いていたセミが、いつのまにか姿を消し、入れ替わりに秋の虫たちがすだくように鳴いています。季節はめぐっていくのですね。
ミンミンゼミやクマゼミ、ツクツクボウシたちのむせ返るような大合唱。そして、「カナカナカナ」と涼やかに、儚(はかな)げに鳴くヒグラシの声。「うるさくて眠れない」という方もおられるようですが、わたしにとっては、セミこそ日本の夏の風物詩。毎年、セミの声が初夏に聞こえてくると「夏が来たなあ」と感慨にふけったものでした。
しかし、よく知られるようにセミの成虫の地上生活は短く、オスは力の限りに鳴いてメスを呼び求め、繁殖行動を終えると、まもなくいのちの終わりを迎えます。多くが土の上にあおむけになって死んでいく。そう考えると、彼らは夏の盛りを謳歌(おうか)していたのではなく、この世に別れを告げる「惜別の歌」を吟じていたのかと思えてきます。
日本には古来、夏のセミや秋の虫を「愛(め)でる」という風習がありました。常夏のハワイには、在来種、外来種を含めてセミ科の昆虫はいない、と聞きましたが、そうなのでしょうか。たしかに、バニヤンやヤシの木にとまっているセミは見たことがない気がするけれど。
でも、ハワイには、オヒアレフアの赤い花や、州鳥ネネなど、神話にも登場するイキモノたちを慈(いつく)しむ細やかな自然崇拝の感情がいまも息づいていると感じます。大自然のマナ(霊気)を浴びて、日本人以上に繊細な自然観が養われたのではないでしょうか。
たまに行く水族館でのお気に入りの一つはクラゲです。のんきにプカプカと海中を漂って。「次に生まれたらクラゲになりたいなあ」と、どこかの飲み会でつぶやいたら、同年配の女性の友人が「あら、若い娘さんの肌を刺したいのでしょう。いやらしい」ですって。軽口もおちおちたたけません、
クラゲが地球に出現したのは5億年前のこと。そのうちの一種のベニクラゲは、なんと死ぬことがない。若いポリプに何度も若返り、ストロビラ、エフィラという過程を経て、また成体の クラゲになるというのです。まさに不老不死。一説には、こうして5億年を生き続けているベニクラゲの個体がいるかもしれないというのです。にわかに信じがたい話ですが。
喜劇王チャーリー・チャップリンの映画『ライムライト』の一場面。生きることに絶望し、命を絶とうとする若いバレリーナに主人公が語りかけます。「生きていることは美しく素晴らしい。たとえ、クラゲであってもね」。クラゲは何を生きがいに、長い時間をぷかぷかと海中で過ごすのでしょうか。クラゲは何も考えていないのか。いえいえ、クラゲは悟りを求めて永遠に浮遊し続ける、尊い遊行(ゆぎょう)の僧のような気さえしてきます。
こうした不思議な世界を教えられたのは、生態学者稲垣栄洋(ひでひろ)さんの『生き物の死にざま』(草思社)です。この本をぜひ手に取ってみてください。目からウロコ。大げさではなく、人生観が変わります。
「万物の霊長」を自称するホモ・サピエンスですが、16世紀のフランスの思想家モンテーニュは、アリやハチは人間より整然とした社会をつくっており、動物に知恵や美徳がないというのは人間の思い上がりだというのです。
ニューヨークのブロンクス動物園にはかつて、大型類人猿舎に「鏡の間」という展示があり、鏡をのぞき込む人の全身像が映ります。そこには「The most dangerous animal in the world」(世界中でもっとも危険な動物)という説明文が書かれていたのでした。核兵器の使用をちらつかせて人類を脅す野蛮な指導者がいるようでは、この展示をいまいちど復活させるべきでしょう。
イキモノたちとの共生が、きれいごとに過ぎないことはその通りでしょう。わたしたちは、「国産牛の熟成ステーキ」「新鮮な海の幸」「とりたての産地直送野菜」を食卓に並べ、毎日のように動物や植物のいのちを体内に取り込みながら、生命を維持しているのです。でも、スポーツ感覚で鳥を撃ち、魚を釣る殺生は、わたしはどうしてもなじめません。
この夏、マンション13階のわが家に、どこから侵入したのか小さなヤモリ君が一匹。「君はわざわざ何を伝えにやって来たの?」。問いに答えるはずもなく、階下の草むらにそっと放してやりました。
(日刊サン 2022.10.7)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。