古希を迎えんという歳になり、面の皮が厚くなったわたしも、徳島市の小学校1年、6歳のときは心優しい、ナイーブな少年だったのですね。
押し入れの奥から「絵日記」を引っ張りだしてみると、徳島のデパートで「昆虫採集セット」を父母に買ってもらって、喜び勇んだのですが、4日後の絵日記にはこうあります。「山で、とってきて、せみにちゅうしゃ(注射)をしました。とても、かわいそうで、いやとおもったけど、しました」。子ども心にも、いたずらに蝉を殺してしまった罪深さが尾を引いたのでしょうか。以来、昆虫採集は嫌いになり、二度と虫を捕ることはありませんでした。
ことさらに暑い今年の夏、木々の幹や枝でけたたましく鳴き続ける蝉の声に暑さはひとしお、うんざりする方もいらっしゃるでしょう。しかし、わたしにとっては、蝉の大合唱こそは待ち遠しかった夏の風物詩。朝、マンションの窓を開け、ミンミンミンミー、ワシワシワシと大音量の声を聞くと、「さあ、夏だ!」と元気がみなぎります。
俳聖・松尾芭蕉が「奥の細道」の道中、山形県の立石寺(りっしゃくじ)で詠んだ「閑(しず)けさや 岩にしみいる 蝉の声」という有名な句。では、この蝉はナニ蝉だったのか? 歌人の斎藤茂吉はアブラゼミと主張しましたが、ドイツ文学者の小宮豊隆はニイニイゼミだと反論。昭和5年の調査で、ほとんどがニイニイゼミと確認されて茂吉は白旗をあげたのですが、芭蕉が山寺を訪ねた新暦の7月13日ごろはヒグラシも鳴くようで、真相はわかりません。
地上での繁殖行動を終えると、オスはまもなく、いのちを終えます。日本では儚(はかな)いイメージで語られることが多い蝉ですが、南部のプロバンス地方が最大の蝉(Cigale)の生息地であるフランスでは「太陽の申し子」「忍耐強さのシンボル」「幸運の運び屋」と呼ばれ、ぐっとポジティブで力強い印象。芭蕉はプロバンスを旅しては、この名句は生まれませんでした。
常夏のハワイでは土中の鉄分のせいもあってか、在来種、外来種を含めてセミ科の昆虫はいないようですね。スチールギターの甘い調べが流れるなか、ヤシの木にしがみついてカナカナカナと無常を奏でるヒグラシなんて、ちょっと楽園とはミスマッチで、想像できませんものね。
ただ、古代から中世の日本では、ミンミンゼミやツクツクボウシを退けて、蝉のダントツの人気ナンバーワンはヒグラシ。清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子』にも「虫はすずむし。ひぐらし。蝶。まつむし。きりぎりす。はたおり……」と綴られています。
古代中国では、長い時間を地中で過ごして羽化(うか)する蝉には「羽化登仙(とうせん)」=「転生」のイメージが強かったらしく、死者の口の中に、蝉の形に似せて翡翠(ひすい)に彫刻した「玉蝉」(ぎょくせん)を含ませて葬る風習があったそうです。
古今の文学作品にもよく蝉は登場しますが、わたしがとくに印象に残るのは、タイトルにもなった藤沢周平の『蝉しぐれ』の終幕でしょうか。架空の海坂藩。父を継いで郡奉行に出世した牧文四郎は、幼馴染(おさななじ)みで、かつて心を寄せた「おふくさま」と村はずれの湯宿で再会します。その逢瀬(おうせ)の帰りに降るように鳴く蝉の声。「さっきは気づかなかった黒松林の蝉しぐれが、耳を聾(ろう)するばかりに……」。人生の黄昏(たそがれ)を迎えつつある文四郎と、おふくの寂寥(せきりょう)の息づかいが、蝉しぐれと重なって読む者の胸に迫ります。
戦前に外交官から首相になり、A級戦犯として処刑された広田弘毅(ひろた・こうき)は、「ひぐらしの 姿は見えず 夕映えす」という句を残しています。
元首相の中曽根康弘氏には首相退任の折に詠んだ「暮れてなお 命の限り 蝉しぐれ」が知られています。秀句ではありますが、なお権力に未練を残したアブラぎった情念が感じられて、嫌いな人がいるかもしれません。中曽根氏は101歳で世を去りました。でも、この人くらいの気迫がないと、1世紀を生き抜く長寿は得がたいということでしょうか。
で、素人のわたしも、異様な暑気にあてられて、一句。
「馬の背も 山も汗する 蝉しぐれ」
お粗末でした!
(日刊サン 2023.8.11)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。