先月、戦後の日米関係に大きな足跡を残した一人の元外交官の偲ぶ会が、東京都内のホテルで営まれました。岡本行夫氏。2年前、新型コロナウイルスに感染し、74歳で突然、世を去りました。偲ぶ会には岸田首相をはじめ、歴代の首相らが参列し、故人の思い出をしみじみと語りました。
わたしが政治記者として外務省を担当したのは1980年代後半から90年代初頭にかけて。岡本さんは日米安全保障課長、北米第一課長として、日米関係の第一線で激務に追われていました。
日本の新聞記者には「夜討ち朝駆け」という取材慣行があります(いまはずいぶんと様変わりしたようですが)。ほぼ毎朝、岡本さんが暮らす目黒の公務員官舎に行くと、霞が関の外務省までの道すがら、京子夫人が運転するバンに同乗させてもらって、岡本さんに取材し、情報の確認をとるのです。
岡本さんが自分から情報を提供することはなかったと思います。ただ、決してウソはつかず、ミスリードをせず、「木村さん、そんな話は聞いたことないなあ。朝日新聞が書いたら恥をかきますよ」と、ときに忠告してくれました。彼の誠実な態度は終生、変わりませんでした。
岡本さんから「これからは寝る時間もなくなるので、取材は勘弁してよ」と頼み込まれたのは、1990年8月2日、フセイン大統領のイラクが隣国クウェートに侵攻し、「湾岸危機」が始まって間もなくの頃でした。ただ、日本の政界は夏のバカンスムード一色。長野県のリゾートで静養していた自民党首脳に電話で事態の深刻さを伝えると「そんなに、たいへんな騒ぎになるかなあ」といたって、のんびりしたものでした。
米ブッシュ政権から海部政権には、同盟国日本の貢献に矢の催促。日本は憲法の制約もあり、自衛隊を送るわけにもいきません。岡本さんは湾岸に展開する多国籍軍への物資協力、輸送協力を担当して、貢献策づくりに寝食を忘れました。800台の四輪駆動車の輸送は「戦争協力反対」の世論もあって、全日本海員組合の強烈な反対に遭いました。結局、岡本さんの粘り強い努力は実ったのですが、ある日、疲れ切った表情で彼がこう語ったのを覚えています。
「これだけ懸命にやったのにさ、日本の評価はToo Little, Too Lateですよ。結局、キャッシュディスペンサーくらいにしか見られていないんだなあ」
湾岸危機・戦争は、戦後の日本外交の曲がり角になりました。その最前線で、のたうち回っていたのが岡本さんでした。
その後、彼は外務省を辞めて外交評論家やコンサルタントに転じましたが、橋本、小泉両内閣で沖縄やイラク担当の首相補佐官などをつとめ、あくまで「現場」に寄り添って問題解決をはかろうとする姿勢は一貫していました。
安保政策などをめぐって、酒席で意見をぶつけあったこともありますが、「親米タカ派の論客」とはひとくくりできない幅の広さがありました。近隣のアジア諸国との歴史認識や和解の問題ではハト派で、韓国などへの強硬姿勢を隠さない安倍晋三元首相に対して、厳しい評価を口にすることもありました。
実に茶目っ気があり、誰をも虜(とりこ)にする人間的魅力にあふれていました。ある日、安保課長席を取材で訪ねると、椅子に背広の上着がかかっています。「あれ、課長は?」と尋ねると、課員が「トイレじゃないですか」。この時、実は岡本さんはワシントンにひそかに出張していたのです。帰国したら、「エヘヘ、まんまとだまされたんだって?」と笑いをかみ殺していました。
昼ごろになると、たまに外務省の食堂でのランチに誘われました。安保課のスタッフも一緒の食事が終わると、全員に甘い餡蜜(あんみつ)をふるまいました。部下に慕われた「岡本組」の結束ぶりがいまも目に浮かびます。
湘南に生まれ育った岡本さんは終生、海を愛しました。海中写真家の中村征夫さんの手ほどきを受けて、30年以上も中東の紅海に通い、美しい作品を数多く残しました。熱帯魚が乱舞する海中写真の年賀状が毎年届くのが楽しみでした。海へのあふれんばかりの想いは『ハンスとジョージ』というファンタジー小説の遺作にも結実しています。
晩年は三浦半島からクルーザーを駆って大海原に乗り出すのが、大きな楽しみのようでした。照れながらもらった、いちばん新しい名刺には「船頭 岡本行夫」とありました。いまはどこかの海で、魚たちとたわむれているのかな。
(日刊サン 2022.5.27)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。