コロナで心がふさぐ中で、うっぷんを晴らしてくれる話題といえば、米大リーグ、ロサンゼルス・エンジェルスの大谷翔平選手の大活躍でしょう。
本塁打を量産する打撃好調のうえに、投手でも久々の勝利を挙げ、盗塁も稼ぐ。「二刀流」どころか「三刀流」。身長193センチの堂々たる体格は、ごっつい同僚たちの間でも見劣りしない。気負いを感じさせずに、野球を心底楽しんでいる様子の好青年の屈託のない笑顔に、「日本人もここまできたのか」という感慨を覚えます。オータニフィーバーに、わたしもくぎづけです。
今から四半世紀ほど前、ロサンゼルス・ドジャーズなどで活躍した野茂英雄投手は「トルネード(竜巻)投法」で三振の山を築きましたし、天才イチロー選手は神技の打撃や守備で不滅の金字塔を打ち立てました。未知への挑戦にひるまなかった「フロンティア精神」をまとった彼らの勇気があって、その後、大谷選手はじめ多くのプロ野球選手が太平洋を渡ったのでした。
私が米国にいたころは野茂投手の全盛時代で、ロサンゼルス空港のギフトショップには野茂グッズがあふれていました。彼には宮本武蔵のような孤独なサムライを思わせる雰囲気があり、そこが米国のファンには、たまらない魅力のひとつだったと思います。当時の駐米日本大使が記者との懇親の席で「野茂はすごいねえ。日本の大使の3倍の影響力はあるかな」と言うので、「いえ、大使、10倍はありますよ」と失礼なことを言って、嫌な顔をされました。
最近、とんと聞かれなくなったものに「日本人離れした」という表現があります。ひもじい敗戦国から幾星霜。大谷選手もそうですが、テレビで見る「小顔」の9等身、10等身といった人気モデルや女優さんには、ため息が出ると同時に、この娘さんたちの手足は、どうしてこんなに伸びやかに育ったのだろう、何を食べてきたんだろう、という問いが頭をめぐります。世界に冠たる日本女性の健康と長生きの秘密は、胴長短足にこそあると言われてきたのに……。
いかん、いかん。このまま話を続けると、「このセクハラジジイ」と非難のつぶてを浴びそうなので、野球に戻りましょう。2012年夏の甲子園大会を制したのは大阪桐蔭高校でした。大会会長だったわたしは大阪桐蔭の主将に深紅の大優勝旗を手渡し、一列に並ぶ選手たちの首に優勝メダルをかけたのですが、近づいて改めて驚いたのはエースの藤浪晋太郎投手(現阪神タイガーズ)。身長197センチと規格外のデカさ。「君、届かないよ。少し首を下げてくれる」と小声で話しかけ、素直に応じてくれましたが、20センチほど差があるわたしはバスケットボールのダンクシュートを両手で決めるような格好になりました。
「まり投げて 見たき広場や 春の草」の句がある野球狂で、野球殿堂入りした俳人・正岡子規をはじめ、日本の野球の発展に尽くした先人は少なくありません。忘れてならない一人は、ハワイゆかりのプロ野球人、故与那嶺要(ウォレス・カナメ・ヨナミネ)氏でしょう。父親が沖縄、母親が広島出身で、マウイ島生まれのハワイ移民2世でした。
巨人軍の一番バッターとして首位打者3回に輝いた伝説の強打者で、巨人の第2期黄金時代を支えました。引退後は中日の監督として、1974年にはリーグ優勝も果たしています。「ウォーリー」の愛称で慕われ、故星野仙一投手ら多くの選手を育てた名伯楽でもありました。
ハワイの野球と言えば、かつて日本、米国、韓国のプロ野球組織が連携して「ハワイアン・ウインターリーグ」という独立のプロ野球リーグが存在し、日本からも鈴木一朗(後のイチロー)、新庄剛志選手らが参加したことがありました。いったん休止後、15年ほど前に復活したニュースに接した覚えがあるですが、さて、最近はとんとうわさを聞きません。やはり、コロナのもとでは、再開は難しいのでしょうか。ハワイの澄みわたる青空に白球が飛ぶ。想像するだけで、わくわくする光景です。
実は、何を隠そう(隠すことも別にないのですが)、かくいうわたしも白球を追う野球少年でした。大分の中学校の野球部では背番号「3」をつけた一塁手でしたが、たいした選手ではなかったなあ。ある練習試合で打席に入ってピッチャーに対していると、「球に(たまに?)当たると、飛ぶぞー」。バックネット裏から、まだ声変わりしていない下級生の部員の、黄色い声援が聞こえてきました。なんだか体中の力が抜けて、凡打に倒れたことを思い出します。
でも、野球はいくつになっても、帰らざる青春の日の「フィールド・オブ・ドリームス」。もし、野球の母国でなかったら、米国はもっと嫌いな国になっていたかもしれません。
(日刊サン 2021.05.14)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。