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【ニュースコラム】お国なまりけっこう。「ジャパングリシュ」でいこう!
春爛漫の季節。東京の桜は3月末には満開を迎えました。米国の首都ワシントンDCのポトマック河畔の桜も、東京より少し早くに見ごろを迎えた、とテレビニュースが伝えています。ウクライナの悲劇が続いて心は晴れませんが、季節は人間界のいさかいとは無縁にめぐっていきます。
米国の地理学者で著作家でもあったエリザ・シドモア女史の提案がもとになって、尾崎行雄東京市長(当時)からワシントンに桜が贈られたのは1912年(明治45年)のことでした。いまもって日米友好の象徴ですが、ポトマックの桜と聞くと、わたしにはいささか苦い思い出があります。
米国人の友人に頼まれて、南部サウスカロライナ州出身のアフリカ系アメリカ人の州議会議員を花見に案内したのですが、彼が車中で繰り出す英語のアクセントが強烈すぎて、さっぱりわからなかったのです。「I beg your pardon.」。何度も私がそう連発するものだから、彼は気を悪くしたのでしょう。ぶすっとして、押し黙ってしまいました。気の毒なことをしたものです。
薩摩弁の人と秋田弁の人とが、互いの方言で話して通じないのは当たり前。まして米国も世界も広い。英語の発音にはいたって寛容になりました。
本家英国の英語といえば流麗な「クイーンズ・イングリッシュ」と思うのは大間違い。コックニー(Cockney)と呼ばれる労働者階級や下町のロンドン子たちが操る英語は、ネイティブでもなかなか理解できません。テムズ川下りの遊覧船に乗った米国の中西部からやってきた観光客の一団が、船のキャプテンの英語案内がまるで理解できず、肩をすくめて苦笑していたのを覚えています。
同じ英語圏の人たちの間でもそうなのですから、これが非英語圏の人たちの「お国訛(なま)り」まる出しの英語となると、なかなか痛快。
なかでもインドの皆さんの舌を巻き込んだ独特のイントネーションの英語は、もはや芸術の域にあると思えるほどです。ムンバイの鉄道の駅の窓口で「ノルトツーソルト」と言われ、きょとんとしたら「north to south」だって。ああ、なるほどね。持っていたカメラを指さされて「コロロ?」と聞かれて首を傾げたら「color filmか?」という意味でした。
いまや、英語はユニバーサルな国際共通語。RとLの発音の違いを中学校の授業でやかましく注意されるのは日本ぐらい。言語はあくまで相互理解のためのツール。ポーランドにはポーランドの、シンガポールにはシンガポールの、地に根を張った、誇り高きローカル英語があるのです。
それにしても、日本人の英語との格闘は涙ぐましいほど。1962年、太平洋をヨットで単独無寄港横断した海洋冒険家の堀江謙一さんは、やっとの思いでサンフランシスコの港に着き、「ここはサンフランシスコか?」と英語で何度聞いても、さっぱり通じませんでした。米国史が専門の猿谷要さんは隣に住む高校1年生の少年に「アトランタ(Atlanta)」と言ったのがわかってもらえず、紙に書くと「おおー、アランナ」とうなずかれた思い出を本に書いています。スペルの中の2つのtはサイレント(消音)になるのでした。
こうなると日本人にはお手上げです。「習うより慣れろ」ですね。
日本の政治家でも、最近は河野太郎元外相ら若い世代を中心に「英語使い」が増えてきましたが、ダントツの黒帯級は何といっても故宮澤喜一元首相でしょう。しかし、彼ほどボキャブラリー豊かに、文法も完璧に、自在に英語を操る人は本場の英語圏のインテリにもそうそういません。自宅ではお孫さんに「グラン・ダッド」と呼ばせていました。お手本にはなりませんね。
そこへいくと、戦前のカリフォルニア州で苦労しながら実践的な英語を身につけた故二階堂進元官房長官の心意気は、なかなかのもの。鹿児島出身の彼の英語は正直なところ、あまりうまくはありませんでしたが「僕はサツマ・イングリッシュだからね」と意に介しませんでした。マンスフィールド元米駐日大使は「素朴で実に味わい深い英語です」と感嘆しました。麻生太郎元首相のべらんめえイングリッシュですか? うーん、ノーコメントです。
日本人の英語力はどんなものか。TOEFLのスコア・ランキング(2019年)では、日本は全170カ国中146位。スピーキングに限ると、日本は西アフリカのコートジボワール、トーゴと並んで最下位とお寒い限り。「ジャパングリシュ」のカタカナ英語でけっこう。見栄を張らず、格好をつけず、さあ世界に飛び出しましょう。
(日刊サン 2022.4.8)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。