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ニュースコラム 高尾義彦のニュースコラム

瀬戸内寂聴さん、辻元清美さん……

師走を迎え、日本の新聞は、この1年間に鬼籍に入った有名人たちを追悼して2ページほどの名簿を年の瀬に掲載する時期を迎える。ひとり一人、心に思い出を刻む貴重な機会だが、その中でも作家で僧侶でもあった瀬戸内寂聴さんを99歳で見送った衝撃が大きい。同時に総選挙では、立憲民主党の国会対策委員長などを務めた辻元清美さん(61)の落選が、自分にとって今年の政治を象徴する事件となった。彼女が大学生の頃から40年来、その活動を見守ってきただけに、心痛む。

京都・嵯峨野にある瀬戸内さんの寂庵を昨年の紅葉の頃に訪ねた。それまでにも京都旅行の際には、何度か訪れたが、この時は体調を崩して病院か施設に、という情報もあり、100歳まで生きるというご本人の希望が実現できるか懸念しながら、庵を後にした。

11月9日に亡くなったことが報道されると、作家や文学関係者にとどまらず、縁のあるさまざまな人たちが新聞やテレビで追悼の言葉を述べていた。それぞれの深い哀悼の気持ちに比べれば、徳島出身で同郷である以外、それほどの接点はなかったが、いくつかの思い出が記憶の底から蘇ってくる。徳島市の実家は瀬戸内仏具店で、今東光さんの導きで1973年に51歳で得度する以前から、仏教とは縁の深い生まれだったともいえる。

寂聴さんは長女を棄てて離婚したことを最大の禍根として生涯、自分の中に抱えて生きた。離婚後のことだが、作家活動を始めた頃、京都の金融業者をモデルに小説『女徳』(1963年)を発表、この時に金融業者の紹介で元日本弁護士連合会会長、中坊公平さんの父親でやはり弁護士だった忠治さんと知り合いになった。忠治さんはその後、寂聴さんの顧問弁護士的な存在だったようで、1976年に亡くなった忠治さんの一周忌には寂聴さんも参列している。長女との和解は出家後のことだったという。

そんな縁もあって、中坊さんが1996年に住宅金融専門会社(住専)の不良債権回収を任された頃は、「中坊さんは現代の菩薩」と新聞のコラムで持ち上げた。中坊さんが3年後に債権回収の仕事を終えた時には、稲盛和夫さん、TBSニュースキャスターの筑紫哲也さんとともに「ご苦労さん会」を京都で開き、我々取材記者もその席に招かれた。

この間、筆者は単行本『中坊公平の 追いつめる』(毎日新聞社、1998年)執筆のため、寂聴さんに東京で会って話を聞いた。その頃、寂聴さんは銀座で小料理の店「卯波」を経営していた俳人、鈴木真砂女さんを主人公に、小説『いよよ華やぐ』を日経新聞に連載していて、インタビューの後で、誘われて「卯波」に同席させてもらった。

寂聴さんが終生、こだわり続けたのは「愛」であり、戦争への道を許さない強い意志だった。『源氏物語』の現代語訳などを読み、人柄の片鱗に触れたことは大切な想い出であり、心より冥福をお祈りしたい。

寂聴さんが亡くなる10日程前、衆議院議員選挙の投開票が10月31日にあった。岸田文雄総裁の自民党は厳しい選挙を予想されたが、絶対安定多数を確保し公明党との連立を維持した。野党第一党の立憲民主党は比例区を中心に大きく議席を減らした。当落の報道を見ながら、辻元清美さんが大阪府第10区で日本維新の会の候補者に敗れた結果に、思わず「なぜ」と言いたくなった。

辻元さんを初めて取材したのは、彼女が早稲田大学在学中の1980年代初頭にNPO「ピースボート」を立ち上げた頃だった。高田馬場のマンションの一室を事務局にして、商船会社と大型客船をチャーターする交渉などに当たっていた姿が思い出される。当時、予備校で教えを受けた作家、小田実さんたちが韓国民主化を支援する運動を展開し、彼女もこの運動に事務局的な役割で参加していた。その後、日本社会党委員長で衆院議長も務めた土井たか子さんの勧めで衆院選に立候補、以来、デマ情報など毀誉褒貶の中で、野党を代表する議員として活動してきた。筆者は新聞記者の立場を離れた後は、彼女のパーティーや勉強会にも顔を出し、「もう還暦!」などと会話した。

辻元さんは「寂聴さんは2002年の議員辞職後、寂庵においでと招いて下さり、約一カ月、庭掃除をしながら自分の心と向き合うよう諭して下さった。このときの対話がなければ、私の心は折れていました。いま、あらためて寂聴さんの言葉をかみしめています。どうぞ安らかにお休みください」とフェイスブックに綴った。「寂聴さんに、私、どうすればいいかと聞こうと思った矢先の訃報」と心境を語る。

2002年に明るみに出た秘書給与の流用問題で、彼女は刑事責任を問われ、辛い時期を経験した。今回の結果は、その当時に次ぐ試練の時となった。

立憲民主党では、敗北の責任を取って枝野幸男代表が辞任し新しい代表を選ぶ選挙が行われた。その選挙戦のさなか、4人の候補者の討論会が11月22日、日本記者クラブで開かれた。筆者も傍聴したが、辻元さんがその席にいないことを寂しく感じた。

高尾義彦 (たかお・よしひこ)

1945年、徳島県生まれ。東大文卒。69年毎日新聞入社。社会部在籍が長く、東京本社代表室長、常勤監査役、日本新聞インキ社長など歴任。著書は『陽気なピエロたちー田中角栄幻想の現場検証』『中坊公平の追いつめる』『中坊公平の修羅に入る』など。俳句・雑文集『無償の愛をつぶやくⅠ、Ⅱ、Ⅲ』を自費出版。


(日刊サン 2021.12.01)

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