【高尾義彦のニュースコラム】100周年迎える日比谷野外音楽堂に思いあれこれ
数々の音楽イベントや市民集会の会場として都民・国民に親しまれてきた東京・日比谷野外音楽堂が、7月に開設から100年を迎える。管理する東京都は来年中に解体し新たな装いの音楽堂に改築する方針で、「祝・日比谷野音100周年日比谷音楽祭」(亀田誠治実行委員長、6月3、4日)をはじめ100周年記念のイベントが続く。自宅から自転車で内幸町の日本記者クラブに向かう機会に、日比谷公園のにぎわいを目撃し、この場所にまつわる思い出や歴史を思い浮かべる。
「野音(やおん)」の愛称で知られる野外ステージの音楽堂は、霞が関の官庁街に近接する緑豊かな公園の一角に、1923(大正12)年7月に開設された。3053人収容の客席を備え、第二次世界大戦当時には休館したほか2度の改築も重ねながら、ステージ以外は屋根のない開放的な施設として歴史を刻んできた。開設当初は舞踏会、ボクシング大会、野外劇などが催されていたという。
日比谷といえば、音楽堂に近い日比谷公会堂で日本社会党の浅沼稲次郎委員長が17歳の右翼少年に刺殺された事件が強烈な記憶として残る。1960年10月12日に起きた事件で、その瞬間を撮影した毎日新聞の長尾靖カメラマンの写真は、ジャーナリスト最高の栄誉とされるピューリッツアー賞を受けた。筆者がまだ15歳の中学生の頃で、放課後の教室に飛び込んできた教師から事件の一報を聞いた状況をいまも生々しく記憶している。
日比谷公会堂は、後藤新平・東京市長当時の1929年に、当時としては巨額の350万円という寄付を安田財閥から提供されて建設した。戦前から政治演説会や国民大会が開かれ、戦後は自民党が総裁公選のための臨時党大会を開いたこともあり、コンサートなどのほか政治の舞台にもなってきた。老朽化のため2016年から休館し、東京都は改修して利用する計画だが、工事の見通しは立っていない。
「野音」に話を戻すと、筆者が初めて身を置いたのは東京の大学に進学した後の1960年代後半だった。大学闘争やベトナム戦争に反対する平和運動の時代で、「野音」で集会を開いた後、参加者は国会周辺に向けてデモに出発する起点となった。ある時、デモ隊の規制に乗り出した警視庁機動隊に追われて、日比谷公園の中を逃げ回り、転倒した友人を引き起こして、辛うじて身柄を確保される事態は免れた経験を思い出す。作家の小田実さんらによる「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)などに共感していた時期だった。
日比谷公園でもう一つ、政治的事件として記憶されるのは、レストラン「松本楼」の焼失事件だった。1971年11月19日、沖縄返還協定反対デモが公園内で激化し、松本楼は火炎瓶の直撃を受け、焼失した。この事件は自分では現認していないが、後に司法記者として取材をしていた時期に、公園と道路一本隔てた検察合同庁舎(旧庁舎)の5階から東京地検公安部幹部らが赤々と燃え上がる火災の状況を見つめ、放火事件の証拠として写真を撮影した、という話を聞いた。
日比谷公園は、第二次世界大戦当時、米軍の東京空襲が始まると、日本軍の陣地となり、松本楼も海軍省の将校宿舎となった。戦後はGHQ(連合国軍総司令部)の宿舎として接収されていた時期があり、政治や社会的事件とは無縁ではない歴史を持つ。
今年3月に亡くなった作家、大江健三郎さんは平和と護憲を訴える「九条の会」の呼びかけ人の一人として、「野音」で2014年に開かれた「集団的自衛権行使容認に反対する市民集会」などに参加している。福島第1原発事故被害者への支援を訴える集会も、「野音」を会場として開かれた。最近では冤罪事件として捜査に批判が集まる狭山事件(1963年)に関して、被告石川一雄さんの別件逮捕から60年の節目に当たる今年5月23日に、「狭山事件の再審を求める市民集会」が、やはり「野音」で開かれている。
「政治の季節」の歴史を強調し過ぎたかもしれないが、「野音」のポピュラーな「顔」にも触れておきたい。1960年代以降は、岡林信康さん、矢沢永吉さんらがコンサート会場として使用し、フォークやロックを中心とする音楽ライブで注目されるようになった。人気のアイドルグループ「キャンディーズ」が77年、公演中に解散を宣言したエピソードも語り継がれ、ジョン・レノンの追悼集会も有名だ。
個人的には、シャンソン歌手、加藤登紀子さんの「ほろ酔いコンサート」などを楽しむ機会があったが、最近はご無沙汰している。それでも、バラや菊、朝顔、マロニエなど季節の花々を愛でるため、自宅から約30分の公園を訪れる幸せな時間に恵まれている。
改築後のイメージは、東京都の方針だと、「野音」ならではの開放感は維持しつつ、ステージと客席前方に屋根を設置して騒音や暑さ対策を講じるという。「野音」が平和を象徴する場として、あるいは音楽を中心とした芸術の聖地、殿堂として、これからの100年も愛される存在であり続けてほしいと祈りたい。
高尾義彦 (たかお・よしひこ)
1945年、徳島県生まれ。東大文卒。69年毎日新聞入社。社会部在籍が長く、東京本社代表室長、常勤監査役、日本新聞インキ社長など歴任。著書は『陽気なピエロたちー田中角栄幻想の現場検証』『中坊公平の追いつめる』『中坊公平の修羅に入る』など。俳句・雑文集『無償の愛をつぶやくⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ』を自費出版。
(日刊サン 2023.6.7)