人間の気高さ、ということについて考えています。
年末年始はほぼ横浜の自宅にこもって、この春に出す本についての資料調べに追われていたのですが、本棚の奥から久々に手にした一冊の古い本から目が離せなくなりました。
『若き死者たちの叫び ヨーロッパレジスタンスの手紙』(社会思想社 現代教養文庫、1979年)です。第二次世界大戦下、荒れ狂うファシズムの暴政に挑み、レジスタント運動に立ち上がって、あるいは偽りの告発などによって捕えられた人々が、処刑される前に、必死の思いで家族らに書き残した97篇の文章が集められています。
ヨーロッパ各国の10代から50代までの男女。漁師、小学校教師、弁護士、主婦、学生、美容師、機械見習工、陶芸家と、職業も様々です。彼らの人生最後のメッセージは、タバコの箱や、トイレットペーパーの切れ端、さらに本の余白や独房の壁などに書かれたのでした。
「ぼくのなつかしいご両親さま たとえ空が紙で、世界のすべての海がインクであっても、いまのぼくの苦しみを書き尽くすことはできません」(ユダヤ系ポーランド人の16歳の少年)
「わたしの娘、わたしのいとしい愛するものよ、おまえの母さんは、おまえに最後の手紙を書いています。わたしのかわいいちびちゃん。明日、5月10日6時に、母さんはもういなくなります」(ルーマニアの30代の女性労働者)
「いとしいものよ。ほんの些細(ささい)なお願いがある。小さいこどもたちのように手に手をとって、そよ風が吹き太陽が降りそそぐ河の堤を、もう一度散歩することだ。静かに落ち着いて書きものをすることだ」(チェコスロバキアの40歳のジャーナリストで作家。妻に残した手紙)
「子供たちへ。勉強と仕事を好きになりなさい。誠実な人生というものは、生きているものの最高の名誉なのです。人類にたいする愛を大切にし、おまえたちの同胞の貧乏や苦しみにたいして、いつも親切であるように」(イタリアの41歳の黒檀細工師)
平和で穏やかな、何げない毎日を楽しみ、戦争の不条理を訴えながら、不条理にも命を奪われた市井の人々の悲痛な叫びとともに、死を前にした彼らの精神の気高さ、残されるものへの思いやり、そして勇気が胸に迫ります。わたしたちはここまで鮮烈に、かけがえのない人びとに、そして「いま」という時代に向き合っているでしょうか。
そんな思いをめぐらせているうちに、もう二度と触れたくもなかった、太平洋戦争中の、ある人物の名が頭をよぎりました。
冨永恭次・元旧日本陸軍中将。彼は第4航空軍司令官として、フィリピンの基地から米艦隊への体当たり攻撃を敢行すべく飛び立つ特攻機の航空兵を何度も見送り、そのたびに「君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と檄(げき)を飛ばしました。しかし、本人は視察を名目に、上級司令部にも無断で、なんと特攻隊を置き去りにしたまま突然、戦線を離脱してフィリピンから台湾に逃亡したのです。戦後も15年を生きましたが、まことに恥知らずの、旧陸軍史上でも最低の将軍でした。
作家の高木俊朗は『陸軍特別攻撃隊』で、狂気のごとく幾多の将兵を死に追いやったフィリピン特攻作戦の全貌を克明に描き、冨永中将の前代未聞のおぞましい「敵前逃亡劇」を断罪しました。
気の毒なのは、冨永の長男の靖氏でした。慶應義塾大学を卒業後、陸軍少尉として終戦の年の5月に宮崎の都城基地から特攻に出撃し、戦死しています。22歳でした。出撃前の態度があまりに沈着で堂々としていたため、見送りに来た参謀が後で「あの隊員は誰か」と下士官に尋ねると、「冨永閣下のご子息です」という答えが返ってきたというエピソードが残っています。単座の特攻機に乗り込んだ靖氏の胸に去来する思いは何だったのか。父の汚名をせめて息子の自分がすすごう、という気持ちだったのでしょうか。 人間は聖人にもなれるし、卑しいものに身を落とすこともできる。英雄的な行為も、破廉恥も、それらは戦争という狂気に覆われた極限状態で起きたことなのだから、と片づけてよいものでしょうか。 「神と悪魔が闘っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ」。ロシアの文豪ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』でそう書きました。
(日刊サン 2020.01.22)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。