地震と雪絵ちゃん
熊本や大分で大きな地震がおきました。ただただ心配で心配でならない私。しばらくして、熊本の友達のえいこちゃんと連絡がとれました。メールをしていて、私は気がつくとえいこちゃんに元気や勇気をいただいていることに気がつきました。
えいこちゃんは
「かっこちやんいっぺんにもとに戻らないのもいいですね。今日は庭の水道がチョロチョロ出始めたのでキャンプみたいに外で洗い物出来ました。毎日少しづつ回復していくから毎日が嬉しい」 とメールをくださいました。
私は、いっぺんに戻らないのもいいですねって言えるだろうかと思いました。えいこちゃんはすごいです。ネパールで出会ったギータちゃんは、どんな辛い中でも幸せは必ずあって、それを探していくことで、与えられた国で、与えられた場所で幸せに生きることはできるって教えてくれました。えいこちゃんはそんな生き方をされているなあと思いました。
今回は雪絵ちゃんのお話をしたいと思います。
雪絵ちゃんのこと
毎日のいろんなこと、うれしいことでも、悲しいことでも、楽しいことでも、腹が立ったことでも、どんなことでも、話したくなる友だちがいますか? 私にとって雪絵ちゃんが、その人でした。“でした”というのは、亡くなってしまったのです(でも、そう言いながら、今も彼女に語りかけていたり、あるいは、こうして、あなたや、他の心を許す友人が何人もいることは、なんて幸せなことでしょう)。
雪絵ちゃんと出会って、雪絵ちゃんが亡くなるまでの20年ほどのあいだ、私と雪絵ちゃんはしょっちゅう会って話すか、手紙かあるいは、ファックスかメールでいろいろな話をしていたと思います。
私は本当に雪絵ちゃんが好きでした。雪絵ちゃんといる時間はふたりとも、本当によく笑っていました。笑ってばかりでした。
私は腎臓の病気や喘息などの慢性の病気の子供たちが通う、病院のそばの養護学校に勤務していたときに雪絵ちゃんに会いました。雪絵ちゃんは、多発性硬化症(別名MS)という病気で入院をしていました。MSという病気は脳のいろいろな場所が固くなり、その場所によって、目が見えにくくなったり、ときにはほとんど見えなくなったり、手、足が動きにくくなったりする病気です。再発のあと、2ヵ月ほどのリハビリで症状は少しずつ軽くなるのですが、発熱前とまったく同じように回復するのは難しいということで、再発を繰り返すたび、雪絵ちゃんは、自由に動かすことができる場所がだんだんと少なくなっていきました。
私は雪絵ちゃんが大好きだったから、再発のたびにただおろおろしていました。でも、雪絵ちゃんは自分の力でその発熱を乗りこえていきました。
毎日、一生懸命リハビリをして、動かなくなった足が少しずつ少しずつ動くようになって、「明日はもっと前に足が出るかもしれないよ」とうれしそうに話していたのに、夜眠って起きたら頭痛がして、それが再発の始まりで、せっかく動くようになっていた足がまた動かなくなってしまったということも、よくありました。
どの程度まで回復できるのかも、いつ後戻りするのかもわからないというのは、どんなに不安なことでしょう。でも雪絵ちゃんはそのたびに、たとえ一度は落ち込むことがあってもいつも必ず自分の力で立ちあがるのです。 雪絵ちゃんが亡くなった今、いつもいつも前向きに、アッハーと笑っていた雪絵ちゃんの強さはどこから来ていたのだろうと、何度も思います。
雪絵ちゃんは口癖のように、MSで良かったと言いました。
私はいつも
MS(私の病名)である自分を無駄にしたくない
MSである自分を後悔したくない
MSであるじぶんを……好きと言いたい
そう思っているの。
MSでも自分を愛していきたい 大好きでいる MSになって……って悔やまない。MSだってうーんと笑えるし、楽しいことだっていっぱいある。MSになったからこそボランテイアに興味を持ってすごく楽しいし、MSになったことを少しは感謝したい位の気持ちでいたい。MSを敵にせずに! とにかくMSの雪絵そのまま、まるごと愛しています。
MSになってよかったよ。だって、かっこちゃんにも出会えたしネ。MSでなかったら会えなかった。けど元気だったらまた別の素敵な人とたくさん出会えたと思います。でも、私、別の人では嫌。今、まわりにいる人に出会いたかったの。かっこちゃんと出会いたかった。だからこれで良かった。
今まで負け惜しみいっぱい言ってきた。病気でもこんなに楽しいんだよとか全然平気とか。でもね、本当なの。人と同じくらい悩んで、みんなと同じ位楽しいことあるんだよ。……こんなこと言わなくてもかっこちゃんにはわかってもらえると思うけどネ。
とにかく私はどんな体になっても、歩けず、見えず、手を使えず、話せなくなってもきっときっとMSの自分を愛していくと思います。MSの自分を後悔せず、無駄にせず、好きでいると思います。
けれども、私は雪絵ちゃんが、ときどき、つらくて悲しくて泣いていたことも知っています。
学校からの帰り道、病室へ寄ると、雪絵ちゃんはカーテンを引いたままにして、その中で声を押し殺すようにして泣いていました。大きな再発がまた雪絵ちゃんを襲い、そのとき、雪絵ちゃんは右手がほとんど動かなくなっていました。そして、足もまた、動かなくなっていたのでした。
しばらくして、声をかけると雪絵ちゃんは私に、
「ねえ、かっこちゃん、私ね、前に、MSで良かったって言ったでしょう? でもね、今の私はそんなことを思えないみたい。もし違う自分だったらどんなにいいだろうってちょっと思ってる」と言いました。
私は雪絵ちゃんの思いが痛いほどよくわかりました。何も言えずにしばらく黙っていたら、雪絵ちゃんが言いました。
「かっこちゃん、だいじょうぶだよ。私ね、少したったらまた元気になれるから。5分たったらなれるから。そうだ、かっこちゃん、何か話をして、その話を聞いて私、また元気な雪絵に戻るから」
そんなときに、いったいどんな話をしたらいいのでしょう。私はわからなくて、ただ、雑談のつもりで、雪絵ちゃんと私の共通の友人である名古屋の鶴田さんの話をしたのです。
「大雨が続いて、鶴田さんの名古屋の工場が水についてしまったんだって。泥水がいっぱい工場に流れ込んできて、汲んでも汲んでも、泥水が床の下から、にじみ出てくるんだって。においもすごくて大変なんだって。それなのに、鶴田さんったらね、『せっかく工場が水についたんだから、なかなか捨てられなかった古い道具なども捨てて、工場をきれいにしようと思います。水についたおかげで、たくさんの人に手伝ってもらって、人間っていいなあって思ったよ』って昨日のメールに書いてあったの。
ねえ、雪絵ちゃん、“せっかく”とか“おかげで”って何かいいことが起こったときに言うんだよね。工場が水につくなんていうことが起こったら、(ああ、どうして私ばかりこんな目にあうんだろう)とか、(ちゃんと堤防をきちんとしておいてくれなかったからこんなふうになったんだ)みたいに不満や悲しみを口にしたくなると思うの。だから私、鶴田さんのメール見てびっくりしちゃった」
雪絵ちゃんは私の話を聞いて、急にすごくうれしそうな顔をしたのです。
「そっか、そうだよね。だれも工場が水につきたいなんて、思う人いないよね。だれも病気になりたいって思う人もいない。でも、工場はもう、水についちゃったんだものね、私も、もう病気になっちゃったんだもの。そのときに、どう考えるかだよね。これからどうするか、どう考えて行動していくかで、幸せになれるかなれないかが決まるんだよね。かっこちゃん、私、いいことに気がついちゃった」
雪絵ちゃんはそんなふうに言いました。
「幸せはそのとき、どう考えるかだよね」って。雪絵ちゃんは、いつも、現実や、それにともなう悲しみや痛みを、そこにあるものとして受けとめて、絶えず前を向いて歩いていこうとしていたのでしょうか? けれどまた、雪絵ちゃんはどんな中にも幸せはあるんだということを知っていたんだなあとも思います。
山元 加津子
1957年石川県金沢市生まれ 富山大学理学部を卒業後、特別支援学校の教員と、作家活動をしてきたが、2014年に教員をやめ、2012年に立ち上げた障がいを持つ方もそうでないかたもみんなで幸せになろうと「白雪姫プロジェクト」を立ち上げ、その中で意識障害の方の回復の方法と意思伝達の方法などを伝えている。