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ウイスコンシンで独り言 連載100回で気づいたこと
ウイスコンシンで独り言 連載100回で気づいたこと
読者の皆さんにはあまり関係のないことですが、とうとう日刊サンでの自分の投稿が100回を超えました!!
一年に25回の投稿として、4年が過ぎたことになります。それがどうしたの?って聞かれればそれまでですが、自分としてはここまでできたことがちょっと驚きです。
4年前にメキシコ滞在記から始まり、その後HPUで教師をしていた経験談を語るつもりで大体15回ほどと思って書き始めました。ところがいざメキシコのことを書こうとしていたら、いろいろ出てきました。
自分達の滞在先の話なら、せいぜい5回か6回で終わったと思われますが、書いてる内に滞在中は気が付かなかったことや、なんと滞在後に興味が湧いたこともありました。要するに「書く」ことで自分があまり気づいていなかったことに気づいたり、滞在中とは違った観点から見たりもしていました。まさに「書く」という行為は自己発見のようなことのように思われるのです。
書くということ
最近でこそ手紙をあまり書きませんが、以前はよく手紙を書いていました。メールにしても、結構素早く書けるので、この投稿もすらすら書けそうですが、手紙とかメールをする時には読み手を知っていますが、この投稿では読み手がわかりません。ひょっとすると思いも寄らぬ人が目を通していることもあるし、最後まで読んでもらえないかもしれないので幾分緊張があります。
ただいつも心がけていることは真実、自分の感じたことを正直に書こうとしていることです。それでも不特定多数の人の目に留まれば、意見の相違とか、「この程度のことしか書けないのか」と言った批判もありうると思っています。ですから、非難されたり、見下されたりされることも覚悟しているべきといつも思っているのですが、読まれる人の中には仮に少数でも共鳴してくださる人がいると思いながら書き続けています。
自分を見つめる
書くということは自分の中の考えとか知識を整えなくてはなりません。その上で自分なりに相手に伝わりやすくしようと努力しています。そんな試行錯誤をしていると、書き出し始めた時、大体の終わり方が頭にありはずなのに、書いているうちに思わぬ方向へ行くことがあります。その意味で「書く」ということは頭の中にいる、もう一人の自分との「対話」でさえあるような気がします。
よく人に自分の悩み事を相談しようと自分の考えを整理しているうちに「一人でに」解決法が見つかったりすることがあります。ですから、誰かに話してみたり、自分の考えを書き出してみるということの意味をこの投稿を通じて強く感じています。
遠く離れたウイスコンシンからまるで独り言のように誰が聞いているかわからないことをささやいていても、どこかで誰かが聞いててくれると信じてこうして書いているのです。
とどけMahalo! アメリカ本土便り No.101
大井貞二(おおいさだじ)
1988年にハワイに移住。地元の私立校で日本語を教える。その後、ハワイ大学大学院を経て、ハワイパシフック大学(HPU)にて世界中からやってくる学生に日本語を教え、最近退職。現在アメリカ本土に居住。
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