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コラム 世界のマグロを追いかけて男の旅 こぼれ話

醤油­ ―アメリカへの道のりの話し

 醤油が米国へ浸透するまでの道のりは、計り知れないものでした。米国では醤油と言えば「キッコーマン」が、醤油の代名詞になっていますが、第二次世界大戦敗戦時の廃墟の状況下にあって、輸出再開の第1号としてキッコーマン醤油が、横浜港からアメリカへ出荷をしました。戦後4年後の1949年のことでした。

 原料となる大豆は、アメリカ、カナダから輸入されたものでした。戦後日本ではなかなか手に入るものではありません。国の農林省から割り当てらった原料を使い、輸出用醤油として質の高い醤油を造り、輸出価格の設定はGHQの意向を受けた国側と協議して決めました。1リットルあたり100円になったたそうです(当時、コーヒーが一杯50円、タバコのピースが60円、銭湯が10円、新聞代が70円ぐらい)。

 

 こうして海外市場を目指したキッコーマンは、早々と船出をします。この時、海外在住の日本人向けではなく、「アメリカ人の食卓への普及を目指した」と言うのですから、すごいです。

 当時は大変な苦労があったようで、さまざまな逸話が残されております。醤油が肉との相性の良さに着目し、スーパーマーケットの店頭で醤油につけた肉を焼き、匂いを出して人を集め試食してもらったりしました。家々も回りBBQを楽しむアメリカ人に醤油のBBQを試してもらったそうです。また、醤油を使ったさまざまな料理の開発にも取り組み、開発したレシピをレシピカードにして醤油の瓶に掛けたり、料理本まで作ったりもしました。こうして、さまざまな手法を凝らしては、一般家庭への浸透を図ったそうです。

 キッコーマンは、1957年に米国サンフランシスコに販売会社を設立するようになります。本格的に米国本土でのマーケティングを開始せたのでした。1973年には米国中西部ウィスコンシン州に工場を建設し、現地生産をスタートさせることで、いよいよ本格的な醤油の国際化を目指しました。ここまで、一気に醤油が拡大させることができたのは、“戦後の人の流れ”があったからと思われます。

 実際に戦争という空白はあったのですが、米国本土では、日本人移民一世から、二世、三世と日系人家庭が広がると醤油の需要は拡大していきます。そして、敗戦時の7年間ほどアメリカ人の軍人や民間人が日本に滞在しましたが、その述べ人数は300万人にも及んだと言います。日本文化や芸術に接するだけではなく、日本食文化にも触れ、醤油を使った料理を堪能したわけです。さらに、米国人と結婚し、日本から米国に渡った日本女性は10万人はいたようです。在日アメリカ人の家庭の食卓には、醤油は欠かせないものになっていきます。

 

 こうした人々によって、アメリカでの醤油の需要拡大は、確実に広がり伸びていくことになります。「たかが醤油」と言いがちですが、しかし、戦争を通過して大きな歴史のダイナミズムのなかで、日本人の食文化のコアにある醤油は、しっかりとアメリカから世界へと広がっていったのですね。

STORY 179

永井 修二

北海道出身、在米38年 鮪関連水産会社34年勤続

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