先日YouTubeで元巨人軍の槙原寛己投手と西武で活躍し、後には監督としても成功した工藤公康投手の対談を見ました。この二人は愛知県出身の同級生で、この二人ともう一人(浜田一夫)の投手とともに愛知三羽烏と呼ばれていました。そんな三人は高校卒業後、プロ野球のチームに入団し、そしてその後、槇原・工藤の両人は球界を代表するような選手になったのです。
工藤選手の意外な話
この対談で工藤選手は実家は五人兄弟で、兄弟全員を高校へ行かせられないと親から言われていました。それで工藤選手は中学を卒業したら就職するつもりだったと聞いて驚きました。もし予定通り、中学を卒業して働いていたら、後の大投手工藤公康は生まれてないことになります。また、中学時代は野球漬けの毎日ではなく、野球部の上級生のいじめでハンドボール部に転部していたそうです。
ところが三年生になるともういじめる上級生がいなくなり、野球部に呼び戻されたのです。そしてその中学での活躍が地元の野球有力校の目に留まり、特待生として名電高校へ行くこととなりました。もし、中三の時に野球部に戻らなかったら、そして高校には行かないと決めていたのに、特待生として名電高校から誘われなかったら、工藤選手の人生は大きく変わっていたでしょう。
アメリカでの経験が工藤選手を変えた
また工藤選手は西武球団に入団後、アメリカでの春期キャンプに参加しました。そこでアメリカの野球選手の野球への取り組み方の違いを目にしました。キャンプも終わり頃になるとアメリカの選手の中には解雇される人が出てきます。工藤選手は一緒に練習した若者の中に球団から解雇され、去っていくのを見て、「これで彼らの野球人生は終わった」と思ったそうですが、ところが、解雇された選手達は異口同音に「ここではだめだったけど、頑張って次の機会を探す」という、あきらめない態度に驚いたようです。そこには「自分には才能がある」という確信(自信)があり、たまたまその指導者達に自分の才能を見る目がなかっただけと、その人達は考えたのです。
多分工藤選手はその時に、「自分を信じて、あきらめない」アメリカの選手のそうして気迫に感心したのでしょう。その後、帰国した工藤選手はあのアメリカの選手のような切羽詰まった気持ちで野球に臨み、その頃はあまり一般的でなかった筋肉トレーニングに取り組むなど、練習に工夫を加えました。その結果、筋力が増し球速が10キロ速くなったそうです。
この筋肉トレーニングの効果でみるみるうちにチーム内で頭角を現しました。これもアメリカのファームで必死に野球に取り組む若者を見た結果だったのでしょう。
人生はわからないものです。ひょっとすると中卒で終わって、野球とは無縁の人生を送ったかもしれない工藤選手。アメリカで必死で頑張る野球の選手の姿をみて開眼した工藤選手。人の人生ってどこでどう転ぶかわからないんだって思いました。
とどけMahalo! アメリカ本土便り No.161
大井貞二(おおいさだじ)
1988年にハワイに移住。地元の私立校で日本語を教える。その後、ハワイ大学大学院を経て、ハワイパシフック大学(HPU)にて世界中からやってくる学生に日本語を教え、最近退職。現在アメリカ本土に居住。
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