日刊サンWEB|ニュース・求人・不動産・美容・健康・教育まで、ハワイで役立つ最新情報がいつでも読めます

ハワイに住む人の情報源といえば日刊サン。ハワイで暮らす方に役立つ情報が満載の情報サイト。ニュース、求人・仕事探し、住まい、子どもの教育、毎日の行事・イベント、美容・健康、車、終活のことまで幅広く網羅しています。

デジタル版・新聞

My Destination

父との最後の時間

父との最後の時間

(前回まで)「世界をまたにかけて働く」ことを幼少からの夢としていた私は、意と反して損害保険会社に入社。順風満帆な生活を送っていたが、会社が急きょ経営破たん。その後の人生を切り開くために渡米。ついに悲願のMBAを取得し、日本に凱旋帰国した。

 

 病床にあった父は、2004年の年越しを自宅で過ごすことを許可された。2週間ほど自宅で過ごし病院に戻って行ったのだが、病院に戻ったあたりから具合が悪くなっていった。ただ、具合が悪くなったというのは見た目とか検査結果のことで、本人はいたって元気そうだった。少なくとも病室を訪れ父と話をしていると、時に病人であることを忘れてしまうほどであった。

 父が患った病気は国指定の難病であり、症例も少なかった。ゆえに、父がどのような経過をたどっていくのかとか、どの程度悪いのかとかは医師から説明を受けても不透明なところが多かった。しかし時間の経過とともに、元の生活に戻るのは難しいかもしれませんという見解から、長く生きられないでしょうという見解に変わり、それとなく自分も受け入れていった。

 2005年3月上旬のある週末。どういう風の吹き回しか覚えていないが、私は一人で父の病室を訪れた。いつもは誰かしら付き添いかお見舞いの人がいるのだが、その時は私一人であった。大好きな父を独占できてとても嬉しかった。そこでの会話の中で、自然とこんな言葉が口をついて出た。「お父さん、俺、銀行辞めようと思う」。自分でもなんでそんなことを言ったのか覚えていないし、銀行を辞めることを考えたことはあったものの、この時に決めていたわけではなかった。その時の父は「そうか」といいつつ、何か安堵したような表情であった。

 でも、この時を境に、銀行を辞めるということに向けて動くようになったのは事実である。この時から向こう一週間強、私は私共に多忙を極めることとなり、父とゆっくり話せる時間を取ることはできない見込みであった。その代わり、その繁忙期終了後に、銀行の決まりで1週間の休みを取得することになっていたので、その機会に父と再度ゆっくり話すつもりだった。しかし、父と過ごせる時間はあとわずかになっていたとは、この時は微塵にも思わなかったし、誰一人としてそう思っていなかったであろう。

 後日母から聞いた話だが、年末年始の一時帰宅から病院に戻る際に、父は「この家もこれが見納めかもしれないな」と言っていたようである。その年末年始は私がアメリカから帰国して初めての年末であり、米国から持ち帰った2メートル近くあるクリスマスツリーを実家に飾っていた。ライトの数は1,000個以上。部屋の灯りを落とした中でロッキングチェアに深々と座った父が、「奇麗だな」といいながらいつまでもツリーを眺めていた姿が実に印象的であった。

(次回につづく)

No. 168   第3章 「再挑戦」

Masafumi Kokubo

ミネソタ州ウィノナ在住。1995年中央大学法学部卒。損害保険会社勤務後、アイオワ州の大学院にてMBAを取得。その後、メガバンク、IT企業を経て、現在は全米最大の鎖製造会社の副社長を務める。趣味はサーフィンとラクロス。

返信する

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial
Twitter
Visit Us
Instagram