2004年秋
(前回まで)「世界をまたにかけて働く」ことを幼少からの夢としていた私は、意と反して損害保険会社に入社。順風満帆な生活を送っていたが、会社が急きょ経営破たん。その後の人生を切り開くために渡米。ついに悲願のMBAを取得し、日本に凱旋帰国した。
帰国して半年近くが経とうとしていた。一般的には半年も経過すれば新たな環境にも適合し平穏な日々を送れていても不思議ではないのだろうが、私と私を取り巻く環境はそうは勝手がいかなかった。メガバンクでの仕事も慣れは出てきたものの、魑魅魍魎とした文化などにもがく日々は相変わらず継続していた。帰国当初は専業主婦をしていた妻も、同じ専業主婦たちとは価値観が合わず、米国生活の経験を活かせる仕事を始めたが、そちらも裏と表があって職場環境は酷かったようだ。
3年間のアメリカ生活で我々の価値観が大きく変わったのは事実であるが、日本も長期に渡る景気の低迷で以前の日本よりさらに元気がない。そのようなところに対して、我々夫婦はアメリカ中西部という非常に過酷な環境下でストレスフルな生活を送っていたものだから、祖国での生活に対して過度の期待を持ちすぎていたのだろう。なお私の仕事については、勤務先のメガバンクに経営統合の話が持ち上がり、先行きの不透明感から更に不安な気持ちになることが多くなってきた。妻も結局は職場環境に慣れず、元の損害保険業界に復帰することとなる。
そして以前も寄稿したが、難病を患っている父の闘病生活が1年になろうとしていた。経過は思わしくなく、元の生活に戻るのはほぼ不可能であろうと主治医から告げられたところであった。父にそのことは告げられていなかったが、父もおそらく覚悟していたのだろう。そのあたりから、「土地のことは匡史(私)に聞け」と言ったような発言も見られるようになってきた。いずれにしても、この時期は何につけても前向きな話題に乏しく、私の人生でも本当に辛い時であった。
そのような中、私の弟が結婚式を挙げることとなった。父はこの日のために外出を許され、送迎のほか式場での父のサポートを私が受け持つこととなったのだがその話はここまでとする。さて、式の中でこのような情景がある。式の終盤で新郎新婦より両親に謝意を伝える場面があるが、弟は父に歩み寄り男泣きに泣いていた。父の体調を考えると賛否両論あった挙式だったが、父の存命中に、と弟が押し切ったものだった。いつも私の陰に隠れたような存在の弟であったが、珍しく自分の意思を通し切った。本意は分からないが、弟なりに思うところがあったのだろう。
私は、物心ついた時からずっと父のことが大好きであり、この時もその気持ちは変わらなかった。しかしこの時、父と一緒に過ごせる時間が既に限られていた状況になっていたとは誰一人思ってもいなかったであろう。
(次回につづく)
No. 167 第3章 「再挑戦」
Masafumi Kokubo
ミネソタ州ウィノナ在住。1995年中央大学法学部卒。損害保険会社勤務後、アイオワ州の大学院にてMBAを取得。その後、メガバンク、IT企業を経て、現在は全米最大の鎖製造会社の副社長を務める。趣味はサーフィンとラクロス。