IPO(上場)申請 Part1
(前回まで) 「世界をまたにかけて働く」ことを幼少からの夢としていた私は、意と反して損害保険会社に入社。順風満帆な生活を送っていたが、会社が急きょ経営破たん。その後の人生を切り開くために渡米しMBAを取得。その後メガバンク勤務を経て、新たなライフワークに取り組むため、渋谷にあるベンチャー企業の門を叩いた。
「今まで本当にお疲れ様でした」。証券会社の担当者が、常務と経理部長、私の3人にねぎらいの声をかけた。「これで、あとは東京証券取引所に申請書類を提出するだけですね?」と常務が念を押すと、担当者は満身の笑顔で頷き、「もう御社の残業にお付き合いするのはこりごりですから」とジョークを飛ばした。その場に居合わせた皆が笑った。このメンバー全員がここまでリラックスしたのはこれが初めてのことであろう。2006年10月中旬。月のきれいな秋らしい夜であった。
入社以来、常に上場準備を業務の中心に置いて今日まで来た。入社間もない2006年5月には、商法などが改正され「会社法」として新たに制定された。これに伴い会社の主要な運営方法を変えたり規程を修正したりした。会社の成長性を証券会社に納得させるため、営業マンからお客さんに提示している見積書のコピーをかき集めたり、お客さんと営業マンのメールのやり取りを集めたりもしてきた。ほとんどが泥臭く、そして時間と手間を要するものばかりであった。それもこれも、証券会社の上場審査を通過するための作業であった。証券会社の審査は、証券取引所の本審査より厳しいと揶揄される。特に、聞かれたくないことについては徹底的に問い詰められる。担当者である私は、体力的にも精神的にもギリギリのところで対応してきた。冒頭のやりとりは、そのような一連の苦行から解放された瞬間でもあった。
その翌日。清々しい面持ちで出勤した私は、いつもより景気よく挨拶を交わした。そんな私の態度を見てか、周りの人たちもきっと上場申請が近づいていることを感じ取ったのであろう。かつてない平和な空気が事務所内に漂っていた。これから証券会社が東京証券取引所とわが社の上場申請に対する段取りを行う。その後、私宛に今後のスケジュールと共に連絡が来る手筈となっていた。当社が初めての上場案件という証券会社の担当者は、いの一番で私に連絡してくる。今までの数えきれないやり取りの経験から、そう私は確信していた。ところが待てど暮らせど電話は鳴らない。結局その日一日待っても連絡は来なかった。常務は「きっと証券会社も忙しいんだろう。“果報は寝て待て”だ。飲みに行くぞ」と私を諭すように言い、夜の渋谷に繰り出した。
しかし我々の予想に反して、翌日もその翌日も連絡は来なかった。こちらから証券会社の担当者に連絡すると、“不在”の一点張りで一切取り次いでもらえない。折り返しの電話をお願いしても全くなしのつぶてであった。何か良くないことが起きている、常務も私もそう感じ始めていた。
それから1週間ほど音沙汰がない状態が続いた。そして、とうとう業を煮やした社長が証券会社に直接掛け合った。社長の直談判にはさすがの証券会社も対応しないわけにはいかなかったようで、翌日証券会社の本社に来るよう伝達された。ただし、来るのが許されたのは社長1名のみであった。
(次回につづく)
No. 184 第3章 「再挑戦」
Masa Kokubo
1995年中央大学法学部卒。損害保険会社勤務後、アイオワ州の大学院にてMBAを取得。その後、メガバンク、IT企業を経て、現在はグローバル企業にて世界を相手に奮戦中。趣味はサーフィンとラクロス。米国生活は通算7年。
シェアする