日本には政府公認の競馬が年中行われている。全国各地の主要都市や東京のような首都では、日常生活で生じた緊張緩和に役立つとも言われるレースが、定期的に開催される。もちろん、一定の年齢に達すれば、誰でも競馬場に足を運ぶことができ、そして自分が買った馬券の競走馬が勝てば、それなりの配当金が手に入ることになっている。しかし、当てが外れた場合は、買った馬券は失効となる。賭け金がかかっているため、参加者の真剣度は極めて高いものがある。
一方、競馬に参加する馬主の勝敗へのこだわりは、さらに必死である。所有の馬が優勝を獲得すれば、膨大な賞金を手に入れることができる。これは正に一攫千金を賭けている勝負であるからでもあろう。この時、馬主と馬との関係は、一心同体の勝敗共同体であると言える。馬のレースでの勝敗は、馬主のその後の人生で、成功と失敗の分かれ目になることすらある。それは人間と動物の馬が、共に一隻の小舟に同乗し、荒波の大海での生死を共にした戦いに似ている。レースは人間と動物の馬が共に「心」を一つにして、固く結ばれる一瞬でもあるだろう。
しかし、世の中は必ずしも期待通りにゆくものではない。自分の馬がレース中に靭帯を損傷するとか、他の思いがけない事故で、獣医師に「もう競走馬としての勝ち目はない」と診断されれば、次には「『安楽死させた方が良い」と言われる可能性が極めて高い。
ある馬主は、長年期待された相棒の競走馬である愛馬に、このような残酷な判断が下されたことから、愛馬の命を救うことを決断した。色々と尽力した結果、千葉県にある厩務員養成施設にある『馬事学院』に辿り着き、そこだけが手を差し伸べてくれた結果、愛馬の死は辛うじて避けることができたのであった。
『馬事学院』の厚意で、約一年間怪我の治療やリハビリに励んだ結果、愛馬は奇跡的に歩けるようになった。獣医が次に提案したのは、北海道の牧場で種馬となり、馬事学院で静かに余命を送ることであった。
この実話が物語ることは、競走馬は競馬場で懸命に競って走っている時は、観客の熱烈な拍手でもてはやされるが、一旦怪我をし、走れなくなると、次に待っているのは安楽死である公算が高いのである。命を救ってもらえるのは、ただ馬主のみである。そこでは、競走馬と馬主の両者が勝利を勝ち取る過程で築き上げた、相互信頼と協力の「絆」から生まれる関係性がある。馬主が安楽死を受け入れず、愛馬の延命を願う意志を強く持ち続けるならば、愛馬には生き延びる希望があるということである。
聞くところによると、引退馬の多くは食肉加工などで殺処分されると言う。人間の馬主と相棒の競走馬がこのような「絆」を築き上げることができるというのであるなら、人間社会でも人間同士の相互理解と助け合いは決して不可能ではなく、いつの日か平和な世界の訪れが期待できそうである。
今どき ニッポン・ウォッチング Vol.221
早氏 芳琴