日本ではコロナ感染者数が最大級の第5波を迎えるなか、東京五輪大会の熱戦が続いています。連日の記録的な猛暑も加わり、このまま大きな事故もなく大会が進むのか、心配は去りません。
自宅でこもっている機会に、二本の名高い「五輪映画」のDVDを鑑賞しました。1936年のベルリン五輪を題材にしたレニ・リーフェンシュタール監督のドキュメンタリー『民族の勝利』(1938年公開)と、1964年の前回東京五輪を活写した市川崑監督の『東京オリンピック』(1965年公開)です。
『民族の祭典』は言うまでもなく、ヒトラーのナチス・ドイツの栄光を讃えるプロパガンダ映画なのですが、光と影が織りなす映像美や、移動カメラを駆使するカメラワークの革新性は、後世のスポーツ中継などに大きな影響を与えることになります。
この二つの映画で、あらためて強い印象を残すのは、競技に挑む選手たちの、極限にまで鍛え上げられた肉体の美しさです。五輪は「平和の祭典」と呼ばれてきましたが、何よりもヒトの筋肉の勝利をうたいあげる「筋肉の祭典」ではなかったのか、と思いたくなります。
先日、NHKテレビで放映された「超人たちの人体」という番組には、目が釘づけになりました。いまだに破られない100メートル競走9秒58の記録を誇る人類最速の男、ウサイン・ボルト選手の肉体の秘密を、MRIで1.5ミリ刻み、2万5000枚以上の画像に撮影し、膨大なデータをもとに立体的な「3DBODY」を浮かび上がらせたのです。
お尻や腿(もも)の筋肉の、並はずれた強靭(きょうじん)さは想像どおりだとしても、驚くのは足の裏の「土踏まず」に分厚く盛り上がった筋肉。イヌやネコには肉球がありますが、あの部分にあたるのでしょうか。これがボルト選手の爆走の秘密だったのですね。
いったい、人間はどこまで記録の限界という壁を突き破れるのか。100メートル競走の「限界値」は9秒44とも9秒37ともいわれますが、まだまだ、かなり時間はかかりそうです。
さて、人体の構造に早くから科学の光を当てたのは、イタリア・ルネサンス期の万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチでした。彼は20年の間に、100歳から7か月の胎児まで30体近い遺体を解剖し、750枚ほどの精密な解剖図を残しています。筋肉の動きがどのように動作や表情につながるかを理解し、その観察のもとに天才画家の作品は生み出されたのでした。
古来、筋骨隆々とした肉体美は永遠の理想でした。「筋トレ」の歴史は古く、紀元前2500年頃の古代エジプトでは「身体を鍛える」という行為が行われたという記録が残っています。紀元前600年頃の古代ギリシャでは、ミロという青年が毎日、子牛を担いで1キロを歩き、トレーニングしていたそうで、強靭な肉体をつくりあげたミロは古代オリンピックのレスリング競技で6連覇を果たしたといわれます。
運動不足が生活習慣病を引き起こす、という学説が確立している現代。フィットネスジムは世界中で盛況です。しかし、AIの進展とともに、筋肉の地位はかつてほど安泰ではないようにも感じます。
たとえば軍事の最先端分野。21世紀の戦場では、紛争地にいちばん先に駆けつける「ジャーヘッド」と呼ばれる屈強な海兵隊員の筋肉量よりも、敵の所在地や兵力配置を正確に分析する高性能コンピュータの情報処理量がものを言います。「いずれ米軍の兵士は、マッチョな肉体とは無縁な、研究所でパソコンをあやつるのが得意な学者・技術者タイプに置き換わるだろう」と予測する軍事専門家もいるほどです。
AIロボットは過酷な肉体労働の現場にも徐々に浸透しています。重い機材を高く危険なところに引き上げることなどお手のもの。「肉体労働の負荷の軽減」というメリットがあるのは確かですが、労働者にはAIがいずれ、自分の職を奪うことになるのでは、という不安がつきまといます。
こんなことを考えながら、冷房が効いた自宅のソファに寝転んで、五輪のテレビ中継を一日中観ているようでは、ジイサンの筋肉は衰えるばかり。鍛え方しだいで、ヒトの筋肉は90歳になっても増えるそうです。さあて、きょうも、筋トレ、筋トレ!
(日刊サン 2021.08.07)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。