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木村伊量の ニュースコラム

【ニュースコラム】ロバートとジェニファー 科学者たちの深い闇

 ロバート・オッペンハイマーは1945年7月、米ニューメキシコ州の人里離れた砂漠の中につくられたロスアラモス研究所の所長として、世界で初めて核爆発実験を成功に導いた人物です。「原爆の父」と呼ばれました。

 彼の生涯を描いたクリストファー・ノーラン監督の米映画「オッペンハイマー」が今月、第81回ゴールデングローブ賞に5部門で輝きました。もっぱらオッペンハイマーの内面の葛藤に焦点が当たり、広島、長崎に投下された原爆の惨状が描かれていないことで批判を浴びもしたのですが、2024年には日本で公開される運びです。

 オッペンハイマーという天才物理学者の生涯に、なぜ、いまスポットライトがあたるのでしょうか。ハーバード大学を3年で卒業した秀才でしたが、岩石採集や古代インドのサンスクリット語に夢中になりました。初の核実験でこの世のものとも思えない毒々しいキノコ雲を目撃した時、彼の脳裏をよぎったのは「われは世界を破滅に導く大いなる死なり」という古代インドの長編叙事詩「バガバッド・ギーター」の中で破壊の神クリシュナが唱えた一節でした。

 野心と功名心にはやったオッペンハイマーでしたが、原爆投下後は「罪」の意識にさいなまれます。ホワイトハウスに招かれてトルーマン大統領に会った時には「大統領閣下、わたしの手は血塗られています」と口走りました。大統領は「あんなやつを二度と連れて来るな」と不機嫌そのものだったそうです。水爆開発には強く反対し、右派の政治家や軍人から目の敵にされるようになります。「救国の英雄」は悲劇的な末路をたどります。

 原爆をめぐっては、かのアルバート・アインシュタインが、弟子筋のユダヤ系物理学者レオ・シラードに説得されて、ナチス・ドイツによる原爆製造に対抗するため、米国も原爆開発を急ぐように求めるルーズベルト大統領宛ての書簡に署名したことを、後々まで悔いました。

 贖罪(しょくざい)意識に沈んだ人物としてよく知られるのは、ダイナマイトを発明したスエーデンの実業家アルフレッド・ノーベルです。クリミア戦争で財をなした彼は「悪魔の手先」「死の商人」とそしられ、遺言状に莫大な遺産をもとにしたノーベル賞の創設を書き残したのでした。

 カリフォルニア大学バークレー校の分子細胞生物学部教授、ジェニファー・ダウドナ博士が、バークレー校の先輩教授でもあったオッペンハイマーが残した言葉を知ったのは、10年ほど前のことでした。

 オッペンハイマーは第二次世界大戦後に開かれた米議会の安全保障についての公聴会で「(科学者は)技術的に甘美なものを見つけたら、まずやってみる、それをどう使うかなどということは、成功した後の議論だ、と考えるものです。原爆が、まさにそうでした」と証言していたのです。

 ダウドナ博士は、ヒトゲノムを構成する32億文字のなかから、たった1文字の誤りを探し出して修正する究極の遺伝子編集技術「CRISPR-Cas9(クリスパー キャスナイン)」を開発し、世界的な注目を集めていました。この最先端技術を使えば、HIV(エイズ)やがんの患者らへの遺伝子治療が期待され、未来の人間の病気の予防にも利用できる「夢の技術」になるかもしれません。

 半面、人工的な遺伝子編集は、まだ生まれない子どもの遺伝子を自在に操ることができれば、より優れた遺伝子にアップグレードしたいという誘惑に駆られることにならないか。誤用され、濫用(らんよう)され、地球上に存在しない生物が生まれてくることはないのか。それは「神の領域」に足を踏み入れることではないのか。ダウドナ博士は2020年のノーベル化学賞に輝きますが、受賞に先立って出版された自著でこう自問しています。

 「オッペンハイマーの言葉を知って、良心が痛んだ。わたしたちはいつかCRISPRと遺伝子組み換え人間について、同じことを述べるのだろうか」

 人工頭脳(AI)やバイオテクノロジーなど科学技術の進化には、めざましいものがあります。「指数関数的な(exponential)変化」と呼ばれることもあります。「この流れを、もはやとどめることはできない」。科学者の多くはそう主張するのですが、ほんとうにそうでしょうか?

 科学技術は福音をもたらすと同時に、ときに想像が及ばない災厄を人間や自然環境に及ぼします。そのことを、しばし立ち止まって考える。それがホモ・サピエンス(賢い人間)たるわたしたちの務めではないでしょうか。

(日刊サン 2024.1.26)

木村伊量 (きむら・ただかず)

1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。

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