昨年は悲痛なできごとがたくさんありました。
何といっても、ロシアによるウクライナへの武力侵攻。10か月以上たったいまも、極寒と深刻なエネルギー不足のもとで、ウクライナの人々の不屈の戦いは続いています。夏の参院選挙では、街頭演説中の安倍晋三元首相が凶弾に倒れました。以来、旧統一教会をめぐる告発が後を絶ちません。
年末近くになって、岸田政権は戦後日本の安全保障政策を根底から覆すような路線変更に及びました。「専守防衛」の大原則をかなぐり捨てて、敵基地攻撃能力(反撃能力)を自衛隊に持たせるというのです。
「第三国がミサイルで日本を攻撃するつもりなら、座して死を待つわけにはいかない。その前に相手のミサイル基地をたたく。反撃の準備と気構えがあることで、日本への攻撃を抑止させる」。推進派の政治家や防衛関係者はその必要性を力説します。そうでしょうか? わたしは納得できません。
なまじ反撃能力を持てば、相手国はさらに大量のミサイルを日本に打ち込むでしょう。相手国からの報復攻撃に備えて、日本全土をハリネズミのように軍事要塞化させるつもりですか。そもそも、反撃といっても、移動式ミサイルの目標を正確に探知できますか。敵が攻撃に「着手」したと、だれが、いつ判断するのですか。国際法違反の先制攻撃になりかねません。
戦後日本は二度と他国を武力で侵さず、自衛隊が「矛(ほこ)」ではなく「盾(たて)」の役割に徹することで、近隣諸国の信頼を勝ち得てきました。その「信用資源」を一挙に捨て去る愚に気づくべきです。
閣僚や与党内の抵抗で、岸田首相の増税方針は先送りされ、安定財源の裏付けがないまま、今後5年間の防衛費を43兆円と決めました。異例の大盤振る舞いですが、中身を詰めるのはこれから、というのですからあきれます。防衛費の増額を訴える元自衛隊トップさえ「砂糖の山にたかるアリみたい。身の丈を超えている」(元自衛艦隊司令官の香田洋二氏)と苦言を呈するほどです。
軍事的脅威を増す中国や北朝鮮に対抗するため、ある程度の防衛力増強が必要と考える国民が増えていることは理解できます。しかし、北大西洋条約機構(NATO)加盟国並みに防衛費をGDPの2%達成を目指す、というのは解せません。旧ソ連に対する軍事同盟のNATOと、憲法で「戦争をしない国」を誓って再出発した日本が同じ比率の軍事(防衛)費である必要がどこにあるのか。根本の議論がすっぽりと欠落しています。
福田赳夫(たけお)元首相の『回顧九十年』に、彼が戦前、旧大蔵省で陸軍省担当の主計官だった当時のエピソードが綴られています。1935年11月、総理官邸で開かれた閣議は陸軍予算をめぐって紛糾。高橋是清蔵相は福田氏に命じて用意させた世界地図の掛け軸を手に「日ソ戦うべからず」と論陣を張り、閣議は中断を繰り返しながら延べ36時間に及んだのでした。
その3か月後、高橋蔵相は2・26事件に斃(たお)れます。命を懸けたこの予算攻防を思うとき、いまの政治家や官僚たちに、時代の曲がり角に立つ気概と責任感がありや。
新年早々から、重苦しい話が続きました。もっと希望に満ちた話題を、とは思いますが、やはり戦争に触れざるをえません。
カタールでのサッカー・ワールドカップは日本の活躍もあって、大いに盛り上がりました。わたしが注目したのは、日本を破ったクロアチアの主将、37歳のルカ・モドリッチ選手です。
クロアチア西部の人口500人ほどの寒村で育ったモドリッチ少年は、ヤギを放牧する祖父の手伝いをして過ごします。しかし、6歳の時、のどかな村はクロアチア戦争でセルビア人勢力に占拠され、モドリッチ少年を可愛がってくれた祖父は機関銃で蜂の巣のように撃たれて殺されました。その悲しみを追い払うように、空襲警報が鳴る合間を惜しんで、サッカーに興じ、その経験が、彼の天才を花開かせたのでした。
「罪のない人々が死ぬというナンセンスを止めなくてはいけません。私たちは平和に暮らしたいんです。戦争に反対」
熱狂の宴が去って、新年の歓びを味わうことなく、凍える冬空を見つめるウクライナの人々に思いは飛びます。
(日刊サン 2023.1.1)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。