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デジタル版・新聞

インタビュー

JCNET代表 Zhao Shulinさん

 

中国在住日本人のための日本語スマートフォンをはじめ、日中間の架け橋 としてさまざまなビジネスを展開しておられるZhao Shulinさんに、文革時 代の中国、日本への留学、事業成功までの道のり、生きがい、さらに将来への 展望について、お話を伺いました。

ライター :下吉陽子

 

 

最先端の技術による日中文化の架け橋となりたい

 

 

文革で資本家の父は農村に追放。苦しかった少年時代

出身はどちらですか。

北京の近くの山西省の生まれです。 1963年に生まれました。 父は農業用トラクタ一を製造する工場を経営していた実業家でした。当時の制度 では、すべて国有になっていたので、名前だけの工場長ですが、数百人ぐらいの従業員がいました。

 

 

家族構成を教えて下さい。

家族は、4人兄弟の末っ子です。一人っ子政策の始まる前です。私たちの育ったのは文革時代だったので、資本家は抑えられていましたから政治的な身分は全くなかったのです。

 

1965年から文革が始まり、父は、名義上の工場長から一気に農村に追放されて、そこで12年間働かされることになりました。 あの時代は生活面では誰もが貧しくて 大差なかったのですが、学校では資本家の子どもとしていじめられ、軽蔑もされたの で、心は傷つきました。

 

いじめよりも軽蔑されたのがつらかったです。資本家の子どもは大学や紅衛兵にも、共産主義青年団にも入れなかったのです。兄や姉は大学にも行けませんでした。

 

 

ご家族も農村に住まれたのですか?

追放されたのは父だけでした。家族はそのまま都市にいましたが、食べ物も不足していた時代で、主食もトゥモロコシばかりでした。80年代まで配給制だったので、肉も油もすべての食材は国から支給されていました。

 

今の北朝鮮のような感じで、ものすこく品不足でした。食料も成年だったら28キロ、その70%がトウモロコシ、小麦粉が20%で、まんじゅうとかはめったに食べられなかったんです。

 

まわりもみんなそうでしたから、それが普通でした。農民は給料を貰えませんでした。国家のために生産して、現物支給でした。ただ、社会的な地位は、労働者と農民が一番偉くて、医者や実業家、地主などは、全部批判されて追放されました。

 

 

洋服は人民服だったのですか?

洋服は国家一律で、人民服でした。毎年日正月に新しい服を貰えるのを楽しみにしていました。靴は母が布で手作りしていたんですよ。下羞も全部自分で布を買って作っていました。

 

既製品を買う時代ではなかったのです。あの時代の「三種の神器」は、時計、ミシン、自転車で、それを持っているのが裕福な家庭だったのです。我が家にはミシンがありました。

 

父は追放されて、資産は国家に没収されましたが、身分はそのまま与えられていたので、それに伴って給料も決まっていたんです。それで、普通の会社員だと25元の給料だったのですが、我が家は90元貰っていて、生活は比較的恵まれていたのです。

 

母は主婦でしたが、途中で給料も減らされて、4人兄弟の子どもを養うために町の工場で働いていました。

 

 

改革が始まったのはいつ頃ですか?

1976年に文革が終わって、部小平の時代になってからです。正式には80年代から開放改革 の時代になりました。父は、65年から追放されて、78年頃に名誉回復してもとの職に戻りました。

 

ただ、追放されていた間も近くの農村で働いていたので、会うこ とはできました。 私が恵まれていたのは、開放改革で、政治的な身分とは関係なく大学の受験ができるようになったことです。

 

それまでは、政治的に身分の高い軍人や政治家の子どもでなければ大学に入れなかったのです。それで、私も大学に行くことができました。

 

 

外国文化への憧れから、日本、そして香港へ

外国文化との接触は?

子どもの頃、フランスのポンピドー大統領が町を訪れました。外国人が町に来たのは珍しかったです。 また、私は子どもの頃から ラジオが好きで、ラジオで外国の中国語放送を聴いていました。

 

でも、台湾、ソ連、アメリカからのラジオ放送は妨害されていて、かろうじて聞こえたのはオーストラリアのラジオでした。それで、台湾の流行歌とかを聴いていました。

 

 

大学は受験があったのですか?

大学には81年に受験で入りました。どうしても外国の文化を勉強したくて、日本語 学科を選びました。日本の文化に憧れて、語学を勉強しようと思ったのです。

 

もうー つは単純な考え方で、日本語を勉強すれば外国文化に触れることも多いだるうと思ったのです。日本語は、中国人にとっては同じ漠字文化ですから、親しみやすかったです。

 

 

日本に留学されたそうですが?

大学を卒業してから、4年間は旅行会社の添乗員をやっていましたが、日本で中国人留学生の支援をされていたお寺の住職 さんが招待してくれて、ビザもとれたのです。

 

既に結婚していたので、二人で日本に行きました。ちょうど、天安門事件の翌月でした。全くお金がない時代でしたが、妻も就 職して、支えてくれました。私も奨学金をもらって、仕事をしながら学校に行きました。

 

 

日本ではどちらの大学に行かれたので すか?

名古屋大学の教育研究科の修士課程に入りました。教育学の学位を持っていたのです。でも、どうしてもマー ケティングを勉強したかったので、半年ぐらいで中退して、愛知学院大学商学研究科の博士課程に進みました。

 

博士号を取ってから、香港に行ける会社ということで岐阜のアパレルメーカーを選んで就職し、そこで研修を終えてから、香港に派遣されました。

 

メンズの服の企画と販売だったのですが、ヤオハンで出店して、現地向けのセールスをしていました。ただ、アパレルの業界は、あまり将来性がないと感じたのです。

 

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