戦争と災害は、どこが違うのか。本質は、同じものではないのか。
愚にもつかないことを考えるようになったのは、10年前からです。敗戦の年の1945年3月10日の東京大空襲と、2011年3月11日の東日本大震災・東京電力福島第一原発事故とが、時空を超えて、二日続きで起きた「人類の災厄」と思えてならないのです。
最近、作家の堀田善衛の『方丈記私記』を再読しました。東京大空襲の日、堀田氏は真っ赤な夜空を仰ぎ見ながら、鎌倉時代に鴨長明が随筆『方丈記』で、京の都に大火災が起こり、業火(ごうか)の中を人びとが逃げ惑う地獄絵を描いた一節をふと思い浮かべるのです。
「或(あるい)は煙に咽(むせ)びて倒れ伏し、或は焔(ほのお)にまぐれて(気絶して)たちまちに死ぬ」
一夜で10万人以上が犠牲になった東京大空襲は、米国のカーティス・ルメイ将軍によって指揮され、後に国防長官や世界銀行総裁を務めるロバート・マクナマラが実行プランを作成しました。木と紙でできた日本の家屋をもっとも効率的に燃やすために、特別の焼夷弾(しょういだん)が使われました。
ルメイは後に、日本では子どもを含む多くの住民が住宅地の中に点在する軍需工場で働いていた、として無差別爆撃を正当化しました。戦後、佐藤栄作内閣はあろうことか、日本の航空自衛隊育成に功があったとして、ルメイに勲一等旭日大綬章を贈りました。ひどい話です。
あの大震災から10年が経つのを前に、岩手県宮古市で内科医院を開いている熊坂義裕さんから、一冊の本を送っていただきました。地元の月刊誌に2015年から連載してきたコラム『ドクター熊坂の「駆けて来た手紙」』をまとめたもの。「駆けて来た手紙」とは、中国に住んでいた詩人の草野新平のもとに、日本の読者から、一刻も早く読んでもらいたいという熱がこもった手紙が届いたことを謳(うた)った詩だそうです。
熊坂さんは福島の出身で、宮古市の市長を12年間務めた方です。震災では、内科医院にカルテがあった130人も犠牲になりました。24時間の無料電話相談「よりそいホットライン」を立ち上げて、被災者のさまざまな悩み、訴えに耳を傾けてこられました。
ご本を一読して、大震災と空前の原発事故に、わたしたちはほんとうに正面から向き合ってきたのか、考え込んでしまいました。
2020年10月の時点で、震災による避難者はなお4万3000人を数えています。潜在化して広がる家庭内暴力(DV)、アルコールやギャンブルへの依存症、そして仮設住宅の解消のめどがなお立たない福島県を中心に、深刻な震災関連自殺と関連死……。
東京電力は2019年7月、福島第二原発4基すべてを「廃炉」とすることを正式に表明しましたが、廃炉の意味を定める法律がないまま、何をもって廃炉完了とするのか。強い放射能を発する燃料デブリの扱いを、いったいどうするのか。「40年で廃炉」という掛け声だけが独り歩きする現状を熊坂さんは疑問視し、国や東電の責任を鋭く問うています。
原発の汚染水が海洋に放出されることに伴う問題や、チェルノブイリ原発事故で子どもの甲状腺がんが多発したのと同様なことが、福島の子どもたちにも起きはしないか、追跡調査にも強い関心を持たれています。その衰えることのないエネルギーの源泉は「郷土愛」にほかなりません。「なぜ、福島県民は、もっと声を上げないのだろうか。もっと怒らないのだろうか」と、熊坂さんは叫び続けています。
日本国民の目下の最大の関心事は、新型コロナウイルスがいつ収束するか、ということでしょう。きっと、3月11日の前後は、震災10年報道があふれかえるはずですが、「ひと区切り」がついて、持続的な関心が薄れはしないか気がかりです。
「人類がコロナに打ち勝ったことを示すための東京五輪」って、誰が言い出したのですか? 当初のスローガンは「復興五輪」じゃなかったの? 原発事故は「アンダー・コントロール」という前首相の言葉が空しく響きます。
不条理な暴力の犠牲となる戦争も、原発災害も、やっぱり同根です。
(日刊サン 2021.03.05)
木村伊量 (きむら・ただかず)
1953年、香川県生まれ。朝日新聞社入社。米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員、ワシントン特派員、論説委員、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを経て、2012年に代表取締役社長に就任。退任後は英国セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェローをつとめた後、2017年から国際医療福祉大学・大学院で近現代文明論などを講じる。2014年、英国エリザベス女王から大英帝国名誉勲章(CBE)を受章。共著に「湾岸戦争と日本」「公共政策とメディア」など。大のハワイ好きで、これまで10回以上は訪問。