【ハワイニュース】「パイロットが笑っているのが見えた」真珠湾攻撃から80年、生存者が語ったこと
カイムキで生まれ育ったルイス・ウォルターズさん(96)は、1941年12月7日、真珠湾海軍造船所の見習いとして仕事をしていた。当時16歳だった。旧日本軍の攻撃が始まった際、反撃にかかる兵士らを民間人労働者らが支援したが、ウォルターズさんもそれに加わったという。
「自分の無力さを感じた。爆撃機に石を投げる。それが私たちにできることの全てだった。パイロットが私たちを見下げながら笑っているのが見えた」。ウォルターズさんは今月5日、真珠湾攻撃の生存者の1人として真珠湾攻撃80周年記念式典に参加。他の生存者の仲間と共に真珠湾の遺構を見て回った。
ハーバート・エルフリングさん(99)は、真珠湾攻撃の際、19歳のカリフォルニア州兵としてキャンプ・マラコールにいた。当時、日米間の太平洋上の緊張が高まっていたため、エルフリングさんの部隊はハワイに派遣されていた。真珠湾攻撃の日は休みをとっていたという。
「真珠湾から爆撃音が聞こえたが、ただの演習だと思っていた。しかし、爆撃機が頭上を飛び交い、爆弾を落とし始めた。機体を見ると、旧日本軍のシンボルである赤い円が見えた。その時初めて攻撃を受けていることに気づいた」。エルフリングさんは、過去にも何回か真珠湾攻撃記念式典に参加している。「まだ参加できるほど健康なことに感謝している。この場所に戻ってきて、他の人々と記憶を共有できるのは良いことだ」。
著書『回顧録 パールハーバー・チャイルド』で自らの経験を語ったドリンダ・マカナオナラニ・ニコルソンさんは、爆撃機が頭上を飛び交い始めたとき、パールシティの家で家族と朝食をとっていた。6歳だった。ニコルソンさんは「地上から機内にいるパイロットを見ることができた。彼らがゴーグルを付けていたのを覚えている」と語った。
爆発音が聞こえ始めると、ニコルソンさんの父親を先頭に家族全員が家から逃げ出し、サトウキビ畑に隠れた。その後、旧日本軍が落として行った不発弾が取り除かれるまで1週間家に戻ることができなかったという。ニコルソンさんは「その後日米が和解し、現在は両国が友好的な関係であることを心強く思う」と話した。
写真: Shutterstock
(日刊サン 2021.12.7)
シェアする