日系移民たちの苦難
20世紀に入って間もない頃、何人かの日本人がテキサスを目指しましたが、その人達は貧しい人達ではなく、企業家、銀行家、新聞記者、退役軍人など教育もある人が多く、士族の出身者もいたようです。彼らは大規模農場経営を営み、小さな日本人の共同社会を作っていたようです。主に米作りをしたようですが、第一次大戦後(1918年)の米相場が暴落、収入の道を閉ざされたり、移民に対する圧力で自主的な移民制限の紳士協定(1907年)、本格的な移民制限法(1924年)が発令されたりと、移民にとってつらい時期がありました。また天災(ハリケーン)や、米作地に海水が入って作物が台無しになるなどというようなこともあったようです。そうしたご苦労の中でも真珠湾攻撃後の日系人の強制収容所への収監は一番大変だったことでしょう。そしてテキサスの日系二世はハワイの日系人のように、大戦へ志願しヨーロッパ戦線の最前線に従軍しました。
戦後、日本庭園を造った谷口勇
テキサスの日本人の中には谷口勇という人がいました。谷口氏は20世紀初め17歳で日本からカリフォルニアに渡り、農業に従事し、やがて土地所有者になり、大規模農園経営者になりました。ところが真珠湾攻撃後には資産は没収されカリフォルニアの強制収容所に収容されたのです。やがて、戦争が終わるとまた農業を一から始められ、長年の努力で再び成功されたのです。その後引退されて、長男アラン氏がいるテキサスのオースティンへ引っ越しされました。アラン氏はオースティンで建築学を学び、やがてテキサス州立大学オースティン校の建築学部長になられた人でした。
その頃、谷口氏はオースティンでどんなことを思われたのでしょうか? 資産を没収されるというような不運にも遭いましたが農業を再興し、そしてお子さんは教育を受け、大学の学部長にまでなられたのです。人生いろいろあっても「おかげさまで」、そんな感謝の気持ちをお持ちだったのでしょうか?
谷口氏はご長男が州立大学の建築学部長であった縁で、オースティンの見晴らしのいい高台に自ら日本庭園を造園できる機会を得ました。そして18か月の休みなしの努力で、1969年日本庭園の開園となったのですが、谷口氏はその時70歳になっていました。まさに情熱の人、実行力の人だったようです。
この谷口氏の平和を願う庭園は、今ではオースティン植物園の一部となっています。1993年には姉妹都市となっている大分市から公園管理の協力もあり、今なお谷口氏の日本庭園の意志は受け継がれオースティン市民を楽しませているのです。
とどけMahalo! アメリカ本土便り No.128
大井貞二(おおいさだじ)
1988年にハワイに移住。地元の私立校で日本語を教える。その後、ハワイ大学大学院を経て、ハワイパシフック大学(HPU)にて世界中からやってくる学生に日本語を教え、最近退職。現在アメリカ本土に居住。
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