テキサスの日本人
テキサスにいたある日のこと、妻と私はヒューストン宇宙センターへ出かけました。センターへの高速道路が込んでいて、中々車の流れが進まないのにイライラして、高速道路を降りて宇宙センターに向かううちに道に迷ってしまいました。そして、車で走行するうちに、何と「小林道路」っていう日本人の名前の入った道路標識に出っくわしました。こんな所まで日本人が来ていたのでしょうか? この小林氏とはどんな人だったのでしょう?この小林氏はこの辺りで農園を西原氏の影響で始めていたようです。西原清東? 聞いたことのない名前でしたが、一体、西原氏とはどんな人だったのでしょうか?
日系テキサス開拓民の先駆者、西原清東
テキサスの日系社会ではこの人を語らずして、日系社会を語ることはできないです。西原氏はまだ明治になる前の1861(文久元年)年に士族の家庭に生まれ、法律を専攻し、やがて高知から衆議院議員となり、同時に同志社の社長(今の総長)も勤めた教養人でした。学問を積むうちにキリスト教徒となり、神学を勉強するために1902年に渡米しました。この渡米中に日本の総領事からこの広大なテキサスで米作の経営をする人達を探している話をされて、どうやら、このテキサスで米作の農業経営に興味を示したようです。そして現地の銀行や日本政府からの借り入れ金で土地を購入し、米作を中心とする農園経営に乗り出すのです。日本からの良質の種とほかの日本人との熱心な働きのためでしょう、生産が同じ耕作面積で、他の米作者の3倍の生産ができ、農業経営は順調だったようです。
やがて、西原氏は市民権を取得しようとしましたが、その当時はアジア系の者には市民権は与えられませんでした。ご本人はこれを不服に思い、法的措置に出ようとしましたが、領事関係者から事を荒立てるなといさめられたようです。幸いにもアメリカは出生地主義で子息はアメリカ市民になり家業をついていました。それで、西原氏はブラジルへご夫婦で移転され、農業経営に当たられました。ブラジル移住後、台湾、フィリピンでも同じことをされたようです。1937年にはテキサスの知人などの尽力で西原氏にとうとう米国籍が付与され、再度入国されました。その時はもう76歳になっていました。そしてその2年後の1937年に亡くなられていますが、真珠湾攻撃を知らずに、亡くなられたわけで、そうしたことを知らずに亡くなられたのはよかったのでしょうか?
我々がアメリカで口にするお米は「ライスキング」と言われた西原氏がアメリカに持ち寄った種から生まれている可能性が高いです。
とどけMahalo! アメリカ本土便り No.127
大井貞二(おおいさだじ)
1988年にハワイに移住。地元の私立校で日本語を教える。その後、ハワイ大学大学院を経て、ハワイパシフック大学(HPU)にて世界中からやってくる学生に日本語を教え、最近退職。現在アメリカ本土に居住。
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