冬にウイスコンシンから、暖かいテキサスのサンアントニオという、アラモ砦で有名な町に行きました。
日本庭園(茶園)
サンアントニオ市北側にある動物園の隣に日本庭園があります。庭いっぱいに広がるコイの池、色とりどりの花壇から石橋を渡って奥へ進んでいくとそこには滝があり、たくさんの訪問者がこの庭の散策を楽しみながら、写真を撮っています。そんな中には、この庭園で卒業記念撮影をする学生とか婚約したカップルが記念撮影などをする人もいます。また、この公園内の休憩所では弁当などの食事や、ラムネやバブルティーの飲み物で庭を一望することもできます。日本人から見るとちょっと中国っぽくって「これが日本庭園?」って感じがしますが、異国情緒を味わうのにいい場所です。
栄蔵氏の死と真珠湾攻撃
この庭園(茶園)がある敷地は百年ほど前には掘りつくされた地肌を露出する採石所となっていました。そこで、市ではここに公園を作ろうと思案中に、日系人画家の神宮栄蔵氏と出会い、日本的な公園を作ることを提案しました。これを承諾した神宮氏は茶園のようなものを作り、アメリカ人への日本茶の普及などを考えていたようです。そして、神宮氏は1919年にこの地に住み着き、1926年に茶園を開園の運びとなりました。神宮氏はいろいろな構想があったと思われますが、残念なことに12年後の1938年に突然亡くなられました。その後、奥様と9人の子供達(7女2男)が園の管理をされましたが、1941年(真珠湾攻撃の年)が家族の運命を変えました。市から公園からの立ち退きを要求され、しばらくはサンアントニオに留まられたようですが、やがてカリフォルニアに転居されました。その後、その園には中国人が移り住み、庭も中華園と変更されたのです。
庭の再建
栄蔵氏の遺族にとって、サンアントニオは、そして日本庭園は苦い思い出の地であったに違いありませんが、その後、何度かその庭園の式典などに参加され、市長の要望で、また日本庭園の再建を依頼されると遺族の一人がそれを承諾して2008年に再度、日本庭園として開園されました。その昔、栄蔵氏はこの庭園にいろいろな考えをお持ちであったと思われます。我々がいま庭を散策するように、その頃、栄蔵氏も散策されたに違いありません。栄蔵氏の突然死はご本人にはもちろん、ご家族にもご不幸でした。でも、お孫さんが栄蔵氏の意を受け継いで、また公園を管理されています。栄蔵氏のお子さんのマーベルさん(2016年没)が「お母さんはあの庭園での楽しい思い出しか話しませんでした」と語った言葉に私は何か救われる気がします。
とどけMahalo! アメリカ本土便り No.125
大井貞二(おおいさだじ)
1988年にハワイに移住。地元の私立校で日本語を教える。その後、ハワイ大学大学院を経て、ハワイパシフック大学(HPU)にて世界中からやってくる学生に日本語を教え、最近退職。現在アメリカ本土に居住。
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