父のこと
(前回まで)「世界をまたにかけて働く」ことを幼少からの夢としていた私は、意と反して損害保険会社に入社。順風満帆な生活を送っていたが、会社が急きょ経営破たん。その後の人生を切り開くために渡米。悲願のMBAを取得し日本に凱旋帰国したが、帰国から1年も経たず父が他界した。
私の幼少期の思い出には、必ずといっていいほど父が登場する。週末は必ずどこかに連れて行ってくれたし、平日も6時までには帰ってきてキャッチボールや将棋などで一緒に遊んでくれた。この理由は父が亡くなってから知ることとなった。母から聞いたのだが、プロポーズされた時に、「私は病気がちで40歳までしか生きられないけど、いいですか?」と言われたようだ。だから子供達には父の記憶を残したかったそうだ。
長身で真っ直ぐな足、胸板が厚く端正な顔つきに加え、器用で社交ダンスなどもこなしてしまう父には華やかな話が多い。映画のエキストラをしていたら、そこそこの役を与えられたり、消防団のパレードでは先頭だったり。父の死後しばらくして転職の意思を固めたのだが、その時私は実家近所の公立中学に立つ「希望の像」という彫刻の前におり、「お父さん。俺銀行辞めることにしたよ」と語りかけていた。そう、その彫刻のモデルも父である。
華やかに見えた父の一生は闘病の連続でもあった。皮肉にも私の記憶は、東大病院のカフェテリアで人生初となるカツカレーを食べているシーンから始まる。これは私が4歳の時のことであり、食道静脈瘤の大手術を行った父を見舞ったときの話だ。そのような父を間近で見ていたから死後検体提供を打診された際、「小さい頃から度重なる手術で身体中切り刻まれてきたので、もう静かに休ませてあげて下さい」とお断りしたのも、私としてはごく自然のことだった。
前回も述べたが、父は多くの人から愛された人だった。父の死後から15年ほど経った今、父の足元にも及ばないものの、私もその偉大な才能を受け継がせてもらっている気がしてきた。幼少の頃から無意識に父を意識し、その能力が自ずと蓄えられていったのかもしれない。父には感謝の言葉しかない。
(次回につづく)
No. 170 第3章 「再挑戦」
Masafumi Kokubo
ミネソタ州ウィノナ在住。1995年中央大学法学部卒。損害保険会社勤務後、アイオワ州の大学院にてMBAを取得。その後、メガバンク、IT企業を経て、現在は全米最大の鎖製造会社の副社長を務める。趣味はサーフィンとラクロス。