ラクロス
(前回まで)「世界をまたにかけて働く」ことを幼少からの夢としていた私は、意と反して損害保険会社に入社。順風満帆な生活を送っていたが、会社が急きょ経営破たん。その後の人生を切り開くために渡米。ついに悲願のMBAを取得し、日本に凱旋帰国した。
2004年7月のある週末。私は3年半ぶりに埼玉県大宮市にある慣れ親しんだグランドを訪れていた。目の前では十数名が、“ちょうど今、練習始まったばかりだよ”と誰が見ても分かるような感じでウォーミングアップも兼ね動き始めていた。懐かしい顔もあれば、全く初めて見る顔もある。梅雨明けの青空の元、芝の緑が眩しい。慣れ親しんだバッグを開けるのも3年半ぶり。中には最後に使ったままになっている道具がある。それらを装着し、皆の輪に加わっていった。これが31歳にしてラクロスに復帰した時の情景である。
このコラムでも寄稿してきたように、大学から始めたラクロスはその後も社会人チームにてプレーし続けた。そして、米国留学と共にラクロスから引退することを決めていた私は、渡米前の最後のシーズンとなる2000年にラクロス人生の全てをかけて臨んだ。結果は満足いくものであり、プレイヤーとしても完全燃焼して引退することが出来た。
米国にいた3年間は、時に“体を動かす程度で”ラクロスをしてみたいという欲求が沸き上がったが、結局ラクロスをプレーする環境に恵まれなかった。さらに完全燃焼で引退しプレイヤーとして悔いは何一つ残っていなかったこともあってか、ラクロスを再びプレーするという意識は日に日に薄れていった。
卒業を控え帰国が近づいたある日、自宅の電話が鳴った。相手は、以前所属したチームのキャプテンで、「21番(私の背番号)を空けて待っていますよ」とのラブコールだった。この一本の電話がきっかけとなり、冒頭のくだりにつながることとなる。
現役復帰後の活躍は、実は冴えない結果となってしまう。この翌年の練習中に右のハムストリングスを筋肉断裂してしまい、これがプレイヤーとして命取りとなってしまった。しかしながら、プレーよりマネジメントに今まで以上に采配を振るい、そこでの経験はビジネスなどにも活かされることとなる。
いずれにしても、一度引退した身でありながらラクロスへの復帰を決めたのは、チームメイトからの熱意に動かされたというより、私がラクロスを再びプレーすること、特に勝利を目指すという目的について、このメンバーたちと一緒の時間を分かち合うことを心底欲していたからだと思う。そしてそのような明確な目的を持てたからこそ、帰国後の逆カルチャーショックや慣れない職場で蓄積されたフラストレーションともうまく付き合うことが出来たのではと分析している。
(次回につづく)
No. 165 第3章 「再挑戦」
Masafumi Kokubo
ミネソタ州ウィノナ在住。1995年中央大学法学部卒。損害保険会社勤務後、アイオワ州の大学院にてMBAを取得。その後、メガバンク、IT企業を経て、現在は全米最大の鎖製造会社の副社長を務める。趣味はサーフィンとラクロス。