帰国後の葛藤
(前回まで)「世界をまたにかけて働く」ことを幼少からの夢としていた私は、意と反して損害保険会社に入社。順風満帆な生活を送っていたが、会社が急きょ経営破たん。その後の人生を切り開くために渡米。ついに悲願のMBAを取得し、日本に凱旋帰国した。
2004年6月1日からメガバンクでの再就職に向け5月下旬に帰国した私と妻は、東京新宿区にある妻の実家に居候することとなった。勤務先の借入社宅に入居するまでの期間限定の居候のはずだったのだが、この居候は2ヶ月近くに及ぶこととなった。居候というのはあまり心地良いものではない。自分の家だったら自由にできることが、出来ないという葛藤がある。それを実現するには妻にお願いすることになるのだが、何でも妻に頼めば妻がパンクする。既に妻は、彼女の両親からの注文をふんだんに受けている。故に居候が長期化すればするほど、フラストレーションが高まっていく環境であった。
ちなみに、社宅の入居に2ヶ月も要した理由を後日知った私は、銀行の文化に愕然とした。空きがないとかそういった話ではなく、私が2ヶ月前に提出した社宅入居申請書には、なんと30人近くのハンコが押印されていたのである。万時こんな感じだったから、今から思えば私の銀行員生活は、銀行の文化に慣れるのに終始したような感じであった。
帰国した私たちの生活は、大きな変化の連続であったが、その中でもとりわけ大きなものが病床にいる父であった。以前寄稿したように父は前年の夏ごろから体調を崩し、お茶の水にある順天堂大学医学部付属病院に入院していた。この父の病床に、週末や仕事帰りに立ち寄ることが日常となった。父は他人に対して気配りする人物だったので、父の言動などで困惑することは一度もなかった。ただ、発症したのが難病の一つであって、快復までの道筋が非常に不透明だったことが我々の悩みの種であった。
加えて、ご経験者はお分かりになると思うが、闘病が長引くにつれ家族のケアも必要である。我が家の場合はそれが母にあたり、この母の心身の疲れは病人の父からも心配されるほどになり、そしてその発散先は自ずと我々夫婦となったのだから我々にとって大きな負担となってのしかかった。
こう書くと帰国して暗い話ばかりだったように思われるかもしれないが、一方、明るい話もあった。その代表格が学生時代からプレーしてきたラクロスへの復帰だった。ラクロスの話をきちんとするには、今回の誌面では足りないので改めて紹介することとする。しかし、このラクロスがあったからこそ、それまでのアメリカ生活と新生活のギャップから生じた様々なジレンマが、大きな問題となって顕在化する前にうまく緩和されていたのだと思う。
(次回につづく)
No. 162 第3章 「再挑戦」
Masafumi Kokubo
ミネソタ州ウィノナ在住。1995年中央大学法学部卒。損害保険会社勤務後、アイオワ州の大学院にてMBAを取得。その後、メガバンク、IT企業を経て、現在は全米最大の鎖製造会社の副社長を務める。趣味はサーフィンとラクロス。