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【Hurricane INIKI’s Attack in 1992】30年前の手記より (8) – 最終回
9月30日 イニキ襲来から19日目
30年後 あとがき
カウアイ島に大型ハリケーン「イニキ」が直撃したのは、今から30年前の1992年9月11日の午後のこと。そのイニキがカウアイ島を直撃した、8日間、ローソクの灯と懐中電灯の灯りを頼りに書き続けた、30年前の「私の手記」。それを読んで、30年前の自分と対面したのである。
大坂で生まれ育った私には、電気が、水が、電話が、食糧が、一切のものが目の前からなくなった経験がなかった。確かに停電とか断水が短期間起こったことを経験したことがあるが、それらがすべていっしょくたに、自分の周りからなくなった状況は初めてであった。
しかもその大きな爪痕を残して去ったハリケーンに全くの無力である人間が、どのように立ち直っていくか、立ち直っていくためには、いったいなにが私たちに必要なのかを教えてくれたのである。
はたからはその悲惨さが見えないので、心配することだけしかできないもどかしさを想像していても、どうすることもできない状況の中で、一体何を頼って生き延びていけばいいんだろうか…
そんな悲惨な質問が、実際その中にいる人たちは、悲惨な答えで迎えるであろうと思うのは、やはり「外」からの見方なのかもしれない。
人間が今まで苦難を乗り越えてきた長い歴史の中の原動力となるものが、私はこのハリケーンが壊していった建物や木々から学んだのである。そこには「生みの苦しみ」だけではない、「どん底から生まれた力強さ」を知ったのである。
私よりももっとひどい状況に置かれた人々の明るい笑顔と、隣人からの暖かい助け合いが、私を励ましてくれたのである。そしてこの得られた貴重な経験を通じて、人は弱いが、つながることで強くなる。人は孤独との闘いで、そこから生まれる「立ち向かう勇気」がある。
くよくよしたり、嘆き悲しんでいるうちは、まだ序の口。それらを乗り越えて生きていかなきゃいけないところを食いしばってやってきたことが、イニキの経験が、30年経った今、私が得た「宝物」なのである。この私の30年を支えてきたようにも思えるのである。そしてこれからの人生にも。
私は小説家ではない。エッセイシストでもない。一介のサラリーマンであった。あったというのは今はもう退職しているので、無職ということになるが。
この日記風な記録は、私のために協力してくれたカウアイ島スタッフ、ホノルル本社のスタッフ、バス会社、ホテル従業員、飛行機業務員、そして私の隣人、ホノルルから物資等を運んでくれた船会社、National Guard、FEMAに、私たちがしたことが無駄にはならないために記したものである。
彼らに30年越しの「マハロ」をここで再度伝えたいのである。
(完)
最後に30年経って忘れられない記憶の中の思い出が風化されないように、今だから詠める歌を、イニキに関係した人々を思いながら作りました。今年もハリケーンや台風で被害に遭っている人たちを思いながら…
「連歌」
青白く はてなく続く 荒廃に 倒れし木々の 影照らす月
嵐去り 残り香漂う 草いきれ 我生き返らす 自然のかをり
樹折られても 屋根飛ばされても くじけない 助け合うこそ 希望の虹へと
嵐去る 虹はかならず いつの日か
若泉
Yukio Waka
大阪で生まれ、20代後半まで大阪で暮らす。アメリカに渡り、ニューヨーク、サンフランシスコを経て、ハワイへ。ホノルルで旅行会社に勤務中、カウアイ島への出向を命じられ赴任する。イニキ災害の後、ホノルルに戻り、ハワイ島に出向。ハワイ島の魅力に取りつかれ、現在に至る。