ゆく河の流れは絶えずして、 しかももとの水にあらず。
鴨長明の随筆にインスパイアを受け「波流月」を 座右の銘とする青山弘一さん。 毎冬ハワイのノースショアに45年間通い続けるレジェンドサーファーを 冬の間の基地となるワイメアベイにほど近いリトリートに訪ねた。 (取材・文 鶴丸貴敏)
1972年。伊良湖。
サーフボードを積んだ一台の車で家族とともに伊良湖岬へ海遊びに訪れた青山弘一さんが目にしたのは第五回全日本サーフィン選手権だった。沖合いに立つ大きな波に乗る選手たちは、皆とてもうまい。それも当然、彼らはプロである。華麗に波を乗りこなす姿を脳裏に焼き付けて、自分も同じようにできるだろうと初めて海に出た青山さんは、その期待とは裏腹に打ちのめされる。波に乗るどころか、まともにパドルすることすら危うかった。しかし、これが青山さんを変えた。難しかったから、どっぷりとサーフィンの魅力に取りつかれてしまったのだった。
中学高校と水泳部に所属し、記録を連発。大学でも文字通り期待の新鋭として体育会水泳部に入部。しかし、青山さんは伊良湖でサーフィンに出会ってしまった。体育会水泳部の練習は厳しい。毎日毎日2000メートルも3000メートルも泳ぎ続ける。当然、サーフィンの時間など取れるはずもなく、サーフィンをやるなどという理由では部活を辞められるわけもない。そこで「家業を継ぐ」と監督を説得。部を後にし、事実、一旦は家業を手伝うものの、すぐに青山さんはサーフィンに出かけてしまうのだった。
2020年。オアフ島ノースショア。
「ようやく2日前に満足いくサーフィンができたんです」と真っ黒に日焼けし真っ白な歯を輝かせて迎えてくれた青山弘一さんは今年68歳。世界でも有数の大波に乗るサーファーで、彼のような人を“ビッグウェーバー”と呼ぶ。
毎年12月1月2月のうちの約2か月、サポートを受ける山口歯科が所有するワイメアベイに近いププケアのリトリートで冬を越す。45年間続けている恒例の冬のノースショア行脚だ。ハワイ行きが近づくにつれ青山さんは毎回童心に返ってしまう。今回も数カ月ぶりのハワイ、炸裂するノースの波に向けて日本で万全のトレーニングも積んできた。しかし、ノースの波を前にしたら「最初にちょっと頑張りすぎてしまって…」と肩をさする。68歳とは思えないほど矍鑠たる青山さんだが、3年前に自らの不注意によって起こしてしまった左肩の粉砕骨折とその手術による痛みが再発。にもかかわらず、ワイメアの波を見たら「楽しくてうれしくて」、何度も何度も、それこそ朝早くから西端の海に太陽が沈むまで、波に乗りすぎてしまったのだ。ファンウェーブを楽しむことはできても、本当にやりたい大波をメイクすることは今年は難しいかも、と諦めかけていたが、ようやく回復。満面の笑顔を見せる青山さんは、まるで少年のような瞳で語り始めた。
2009年12月25日。ワイメアベイ
「ドーン」「ズシーン」。30フィートを超える大波が押し寄せるとき、ノースショア一帯は夜明け前から異様な雰囲気に包まれる。世界中の大波愛好家たちにとって“the day”というその日は、波が打ち寄せるたびに、大地が揺れ、建物もミシミシと音を立てる。
太平洋の真ん中にぽつんと浮かぶハワイ諸島に、この時期押し寄せる大きな波はアリューシャン沖の冬の嵐からはじまる。その嵐で叩きまくられた北太平洋に波が生まれ、それが延々とハワイ諸島までうねりとなって伝わってくる。何百メートルもの深さがあれば単なるうねりだが、オアフ島ノースショアに近づき、いきなりサンゴ礁の浅瀬に乗り上げると、その浅い海底によって行き場を失った波のエネルギーは、真上にせりあがるしかない。30フィート、およそ12メートルを超す大波がノースショアに押し寄せるのは数年に一日あるかないか。それが、特別な日the dayだ。「30フィート以上の波が立つ日」が開催条件の大波を競うサーフィン大会エディ・アイカウ・インビテーショナルでさえ、40年を超す歴史の中で実施されたのは9回のみ。そのエディが開催された2009年12月。大会の数日後の12月25日。再びその日が訪れ、30フィートを超える大きさの波がワイメアベイに襲来した。青山さんをはじめ50名のビッグウェーバーが沖合いにいたが、牙をむく波のサイズはさらに上がり、完全にクローズアウトになった。吹き上がる波しぶきは、ワイメアベイ脇に立つ教会の鐘よりも高く舞い上がったほどだ。
数十ヤード沖合いに残ったのは青山さんただひとり。そこで大波をメイクしたときの画像が雑誌『THE SURFERS JOURNAL』日本版に掲載されている。紺碧の大波に白いスープがあり、その中心にいる青山さんは、波の中でとても小さい。いや逆だ。波が大きすぎるのだ。そこに青山さんひとりしか映っていない。大会ではなく、しかも周りに人がいないこんな写真はそうそう撮れるものではない。青山さんの宝物の一つである。
ワイプアウト
通常の波にもまれたら、白い泡の中で洗濯機のようにぐるぐると巻かれるだけだが、青山さんが乗る30フィートの大波では「真っ黒け」になる。波の力が強すぎて、投げ出された人間の体は白い泡のさらに下に放り込まれ、上も下もわからなくなる。左右とか上下とかのいかなるバランスもわからない。だから、青山さんは目を見開き、時を待つ。1、2、3、4、5、6、7…。長くても40秒。青山さんは水泳の記録保持者だから泳ぎは得意だ。それが絶対の自信でもある。待てば、大丈夫。回転が止まるまで待ち、「絶対に上がれる!」と他人より強い平泳ぎのそのひと蹴りで、ぐいと真っ黒けの中から明かりを目指して上がっていく。大波をメイクしたワイプアウト時の心拍数は120を超えているから、凡人ではほんの数秒息を止めるのさえ至難の業。だが超人青山さんは、そのためのトレーニングを日々積んでいるからこそ上がってこられる。
The dayのワイメアの波はすさまじく巨大だ。膨大な水量が、極限まで緊張し、せり上がり、そして、次の瞬間、その緊張は解き放たれる。背後の太平洋からワイメアを目指す波のエネルギーの到着をビッグウェーバーは待ちかまえる。横長の巨大な波が押し寄せるや両腕や背筋、全身の力を瞬発的に爆発させ、敏捷性のあるパドリングによってぱっぱっぱっと、波の進んでいくスピードとエネルギーに追いつきボードの向きを一気に変える。割れる直前に波は海面ごと2メートルぐらいグンと山のように盛りあがる。そのときパドリングの力を強め、波に引っ張られながら、せりあがる波のピークから、一気にボードに立ち上がる。緊張する全身のバランスを保ち、盛り上がりきって空中へ崩れていく波を、波のエネルギーとともに、まっさかさまに滑り落ちていく。テイクオフの瞬間は無。青山さんの言葉だと「立つとき、立つ瞬間から先のライディングまで意外と覚えていない。トランス状態になって、気持ちいいのでしょう」。そして背後から、波が崩れる。ハワイの波はほかのそれと違い「硬い」。波にコブが何個もある。まるでコンクリートで、それに打ち勝つ足腰のバネが必要なのだ。「そやから、大きな波はちょっと難しい」と青山さんはさらりと言う。
すべては、大波のために。
トレーニングもせずにボードに腹ばいになり、パドリングで沖に出たところで死ぬだけだ。いきなりノースショアの大波に乗ろうものなら、波に巻かれ体をねじられ、海底に叩きつけられて、その上から何トンという重さの波でおさえつけられる。いとも簡単にあばら骨は折れ、それこそ半身不随、へたをするとあの世行きである。
ひとそれぞれ怖さの基準は異なる。50センチで怖い人、3メーターで5メーターで。「ぼくの場合はたまたま12メーターっていうことです」。怖さを克服するために練習を積む。確実にできるように、できる技術を磨き、多少ミスっても、そのミスを克服し、凌駕する体力を手に入れる。青山さんが毎日行うランニング、食生活のすべてがサーフィン、すべてが大波を乗りこなすための練習、修行だ。さらに、大波を克服するメンタル、海や風、自然に対する知識。青山さんには水泳の泳力があるからさらに強い。
1972年。四国。
カリフォルニアの海で華麗に波に乗るロングボードの映像を観ただけで、自分の世界観を変えてしまうことが現実にある。まだ10歳代だった青山少年にとって、サーフィンとはそういうものだった。アメリカのテレビ番組や、JUNというアパレルメーカーが提供していた音楽番組で、ビーチボーイズの曲とともに観たサーフィン。「いつか波に乗ってみたい」そんな気に青山さんはなっていた。『オーシャンライフ』というヨット雑誌に数ページ、サーフィンの記事が出た。それまでカリフォルニアやハワイのサーフィンを思い描いていたら、日本の湘南でサーフィンができるという。そこで、自分もできると、中古のマリブ(米沢プラスチック製)のサーフボードを手に入れた。関西ではほぼ第一号であろう。伊良湖での初体験からほどなくして、当時では希少なフォルクスワーゲンのバスを手に入れ、自らペイントを施し、水泳部の後輩や弟とサーフバム(波を求めてキャンプしながらの旅)に出かけた。いまやポピュラーとなった関西や四国のサーフポイントの多くを開拓したのも青山さん。まさにパイオニアなのだ。音楽番組で観たカリフォルニアの若者を関西や四国で実践し、青山さんはサーフィンのライフスタイルを日本で確立していった。
そして未来。波流月
ププケアの山口歯科のリトリートには青山さんの水泳の生徒、四国をはじめ日本各地、そして世界で活躍するプロアマの老若男女さまざまなサーファーたちがひっきりなしに訪れる。いま多くの若き日本人サーファーがワールドサーキットで戦っているが、そんな彼らも青山さんの門を叩く。インタビュー前日に開催されたパイプラインの大会で決勝に残っているうちの三人は青山さんの水泳の生徒だ。波に乗ること、波を知ること、そして泳ぎを教える。現役スイマーである青山さんは世界マスターズ水泳選手権で世界3位になったことも、また日本記録も打ち出したこともあるほどだ。話し、笑い、寝食を共にしながら、青山さんは背中で語る。持ち前の闊達さと笑顔で、孫以上に年の離れた後輩から、”AOG”(アオ爺)と呼ばれ、慕われている。
ノースショアだからこそ、意味がある。
今年2020年の東京オリンピックでは五輪史上初めて、サーフィンが正式種目に採用された。これによって日本のサーフィン事情はさらに発展する。愛好家も増えるだろう。しかし五輪関連の役員に青山さんの名前はない。板の長尺を問わずどんなサーフィンも愛する青山さんだが、その競技自体にはあまり琴線は触れない。青山さんは根っからの大波好き。だから、技を競う大会に触手が動かないのだ。JSPA第一期生のプロサーファーにも関わらず青山さんにとって目指すゴールドメダルは競技会ではなく、ワイメアの30フィート、40フィート、12メートルを超える大波だ。怖くないわけはない。技術が低いと恐怖もさらに強くなる。経験したことのない大きな波に立ち向かうとき、訓練を積んでいなければ自分の限界がわからないから怖い。しかし、あたりまえにできることであれば怖くはない。だからこそそれに備え、青山さんは45年に渡りハワイを訪れ、ノースショアで練習を積んでいる。「四国の波も大きいです。台風になると日本でも有数の波が立つのが四国で、そのときのタイフーンスウェルはものすごくいい波ですよ。しかし、ここノースのサイズはその3倍にも4倍にもなる。波の数も多いから、10倍ぐらいの本数に乗れる。それだけ、冬のハワイは波の条件がいい。
このノースショアは”奇跡の7マイル”と呼ばれている。ワイメアからサンセットビーチまでの7マイルにすべてが凝縮されている。ここは修行の場所。マウイ、カウアイ、ビッグアイランドより、ここの波が素晴らしい。マスコミも多い、注目も受ける。カメラマンも多い。世界のトップが集う舞台、聖地なのです」この海で修行することこそが、青山さんをはじめとする大波乗りたちのアイデンティティなのだ。
2020年 宍喰
四国の宍喰で長年の夢だったゲストハウスを営み、そこで板も削っている。その名前が「波流月」。これは青山さんが考えた言葉だ。もとは方丈記の鴨長明が詠んだ「ゆく河の流れも絶えずして、しかももとの水にあらず」。Waves flow like a moon.青山さん自身の座右の銘であり生き様だ。「波、月のように流れる」。これからどう生きるか、を考えたとき、波、人の流れ、出会い、月の満ち引き。流れに身を任せて生きる。を言葉にしたものだ。四国でもハワイでも太平洋をうねって渡ってくる生きた命のようなエネルギーに向かうには、自ら削った“波流月”と名前の入る板こそが信頼のおけるマジックボードだ。
夢は70歳で平泳ぎ200メートルで日本記録の更新と世界マスターズ水泳出場。サーフィンでは70歳で20とまでは言わないが18フィートの大波に乗ること。
かの有名なエディ・アイカウの実弟クライドは66歳で出場した大波コンテスト“エディ”を最後に現役を引退してしまった。だから現在、ワイメアの大波をメイクする65歳超の現役ビッグウェーバーは青山さんくらい。70歳を超えてもまだまだ現役を続けるつもりだから、「そのうちギネスに載ってしまうかもしれないですね」と笑う。水泳は体力に応じてタイムは落ちる。自身を振り返ると55歳くらいのときのタイムが速い。一方サーフィンは、技が衰えることはない。体力こそ落ちれどテクニックがそれをカバーし、経験から波をまだまだ楽しめる。いままで一度もサーフィンをやめたいと思ったことがないし、いつまでもやり続けるつもりだ。生涯ビッグウェーバー。だから、青山さんは止まることがない。今日も月に見守られながら、世界の波に流れるように乗る。
(日刊サン 2020.2.29)
青山弘一さん あおやまひろかず 68歳。
JPSAショートボード第1期生プロサーファー、ビッグウエーバー、シェイパー。1972年京都で初めてのサーフショップ「ノースポイント」を創業。2013年に徳島に移り住みゲストハウス波流月をスタート。春夏秋は、ゲストハウスとシェイプ、SUPスクールを行い、冬は宿を閉め、45年通うノースショアのビックウェーブへの挑戦を続けている。契約ウェットスーツMAXIM CRAFTSUITS