去る10月17日、落語家・立川談慶さんの初ハワイ独演会が開催されたことは記憶に新しい。会場となったワイキキDFSオハナ・ラウンジには、落語立川流を堪能しようと多くの在住者やメディアが来場し、大盛況のうちに幕を閉じた。既に第2回目の開催の話が持ち上がっているという。落語家として特異な経歴を持つ談慶さんは、1965年、長野県上田市生まれ。本名・青木幸二。駿台甲府高校から慶應大学経済学部に入学し、卒業後は大手衣料品メーカー、株式会社ワコールに入社。3年間のサラリーマン生活を経た後、立川流に正式入門し、天才落語家と言われた故・立川談志に師事した。その9年半にも及ぶ前座時代の経験などを綴った著作も多数出版している。今回は、そんな談慶さんの子ども時代から真打ちになるまでのエピソードや、師匠だった談志さんの逸話、今回初めて訪れたハワイの印象などについて伺った。 (聞き手・佐藤友紀)
小学校の文集に「落語家になりたい」と書いた
―― 談慶さんは、子供の頃から落語家になりたいと思っていたのですか?
談慶:小学校2年生の時の文集に「落語家になりたい」って書いたんですよ。落語家がどういうものかも知らないくせに、そう書きました。林家三平師匠、今の三平さんのお父さんですが、彼が賑やかに観客を笑わせている場面をテレビで観たんです。一人の人が多くの人を笑わせているという状況に、扇の要のような構図を感じたんです。一人の人が多くの人々を幸せにする落語家という職業に憧れを持ったんですね。ときめきを覚えました。
「お客さんなし」のレコードを聴いて 落語への興味が薄れた
―― ご両親は、それをご存知だったのでしょうか。
談慶:知っていました。それで、落語のレコードを買い与えてくれました。でもそのレコードは「お客さんなし」の落語で、ライブ盤じゃなかったんです。演者の言葉が単に記録されているものだったんですね。だから、正直そこで「全然面白くないなぁ」と思ってしまって。やっぱり、人間というのは共感が大事なんですよね。一緒に笑う人がいたら面白く感じるし、大して面白くなくても笑っちゃうものなんですよ。それで、そのライブ盤じゃないレコードで、逆に落語への興味が薄れてしまったんです。
漫才ブームからの影響
―― 中学時代、テレビ局で働くことに興味を覚えたと伺いましたが。
談慶:自分は昭和40年生まれなんですが、中3の時に漫才ブームというのがあったんです。ビートたけしさんとか島田紳助さんとか、その辺りの方たちがグンと上がった時だったんですね。それで、テレビでは漫才ばかりやっていました。その時、ああいうお笑いの方たちと一緒に仕事をしたいと思って。それにはテレビ局に入ればいいんじゃないかと思ったんです。テレビ局のようなマスコミへの就職に強い大学といえば、早稲田と慶応。それで、勉強しなきゃいけないなと。「田舎の進学校に行ってちゃダメだな」と思って、東京の東大合格率が高いような高校を狙わないと自分の活路は見いだせない、という思いに駆られて、開成高校を受けたんですよ。受験のジの字も知らないくせに、そこに行けば東大が近くなると思ったんですね。
文化祭でお笑いショーを開催 人を笑わせる喜びに目覚めた高校時代
―― 駿台甲府高校時代のエピソードをお聞かせください。
談慶:結局、開成高校はダメで地元の進学校に行ったんですけど、やっぱりしっくり来なくて。そんな時、クラスメイトから「新設校の駿台甲府高校というところが編入試験で二期生を募集してる」という話を聞いたんです。そこは高校3年間のカリキュラムを2年で終わらせて、残り1年間は予備校のテキストに切り替えて、受験体制に入るという高校だったんです。「ここなら俺の未来が開けるな」と思って、編入試験を受けて入りました。駿台甲府高校受験をクリアしたすごい人たちがいる中で、大学を受ければいいと思っていたんですね。それと、高校の文化祭で、アトラクションの一環として、身近なお笑いという感じで「青木幸二ショー」というのをやったんです。そこでダイレクトに人を笑わせる喜びに目覚めて、「こういう世界もいいかもな」と思ったんですね。でも、落語にはまだ距離がありました。その後東大を受験したんですが、入れませんでした。
慶応大学では落語研究会に所属
―― 小学生のころに落語への興味が薄れてしまったものの、大学で落研に入ろうと思った理由は何だったのでしょうか。
談慶:それで慶応大学に入ったんですけど、そこでもお笑いをやってみたいと思っていて。お笑いをやるにあたって、そういうサークルに入ろうと思ったんですが、慶応には落語研究会しかなかったんです。しょうがないから、落研に入るつもりはなかったんですけど、入りました。それまで落語は古臭いものだと思っていたんですね。それに子どもの頃、ライブ版じゃないレコードを聞いちゃったもので、面白くないものというイメージで入ったんです。
先輩から渡された一本のテープで、 後の師匠となる立川談志の落語に出逢う
―― それから落語に興味が戻ってきたと。
談慶:落研に入って最初に、立川談志の『らくだ』という落語のテープを先輩から渡されたんですね。お客さんの笑い声もビンビンに入ってるものでした。『らくだ』って、すごい落語なんですよ。人間の喜怒哀楽が全部入ってる。それで、一発でときめいちゃったんです。遠回りしたんですね。小学校2年の時に落語家になりたいとは言ったけれど、落語が何なのかも知らなかった。ただ、一人の人間が大勢の人を笑わせてる、その図式に憧れて漠然と落語への思いを持っていました。それで、大学に入って初めて「落語ってのはすごいもんだ」と思ったんです。そして、立川談志という人がすごい落語家だということが分かって。その人が(当時から)20年前くらいに出した『現代落語論』という本があるというので読んでみたら「ああ、これはもう、この人しかいないんじゃないかな」と。遠回りして、やっと運命の人と出会ったみたいな感じでした。
バブル華やかなりし1988年、ワコールに入社
―― 大学卒業後は大手衣料品メーカーのワコールに入社されています。テレビ局への入社志望からワコール入社へ変わった経緯をお聞かせください。
談慶:大学を出たらテレビ局に入って、お笑いのトップスターたちと番組を作りたいと思っていたんですけど、大学では本当に勉強してなくて。テレビ局に入るような知識も才能もなかったんですね。思いはあったんですけど、空回りしていました。テレビ東京の最終面接には残ったんですけど、結局それもダメで。そうなると「どこでもいい」というとおかしいですけど、それまで自分が積み上げてきたものや才能まで全部を評価して、採用してくれたのがワコールだけだったんですよ。昭和63年入社ですから、バブルが華やかなりし頃で。まだこの景気は続くだろうなとは思ったんですが、(景気が悪くなった場合を考えると)女性の身の回りのものを作っている会社は不況に強いという感じがあったから、じゃあワコールにしようと思ったんです。お札の数勘定してるよりも、ブラジャーを数えてる方がいいかもな、と思いまして(笑)。
入社後は福岡支社に配属。 ハードな日々を送る中「談志の落語」に救われた
―― 福岡支社では営業を担当していたと伺いました。その頃は、どんな生活を送っていたのですか。
談慶:福岡に行った後も、まだ落語家になりたいなって思いがモヤモヤしていたんですよ。でも、時はまさにバブル真っ盛りですよね。右肩上がりです。前年比10%増が当たり前みたいな風に、ノルマを出されるわけです。そんな中でセールスマンとして予算を抱えたりして、結構ハードな日々を送っていて。でも談志の落語で、また救われたんですよ。落語は人間の業の肯定なんです。人間って元々ダメなもんなんだ、っていう。眠くなれば寝ちまうし、飲みたくなれば飲んじまうしね。師匠談志の名言で「酒が人間をダメにするんじゃなくて、人間は元々ダメだということを、酒が教えてくれてるだけなんだ」というのがあるんです。これが、ズシンと響いて。「ああ、いいなぁ」と。宗教的ですよね。救いを求めるようにして、談志の落語をもう一回聴いてみようと。そう思ったんです。
有給を取って談志さんの福岡独演会へ。 「やっぱり落語家になりたい」と思うように
―― それで、談志さんの落語のよさを再認識したと。
談慶:そうやって談志の落語を繰り返し聴いているうちに、今度は生で聴き始めちゃって。師匠談志は福岡でも定期的に独演会をやっていたので、その日は会社から有給取って。朝から「談志を聴くんだ」という感じで行くわけです。独演会に行き始めて4回目か5回目の時に「ああ、俺は落語家になりたがってるな」と気付いたんです。それで夜、夢の中で、小学校2年生の時の自分が出て来て。囁くんです、耳元で。「お前、何やってるんだよ。僕は落語家になりたかったのに。サラリーマンになりたかったんじゃない」って。そうして昔の自分と会話をしているうちに「こいつの夢を叶えてやれるのは、俺しかいないな」と思うようになって。じゃあ、会社、やめちまおうかなと。それで、師匠談志にそれを言ったら「来たきゃ来い」みたいな感じで。あの人はぶっきらぼうですから、それしか言われなかった(※談慶さんは当時、後述の「立川流Cコース」にいた)。
いきなり、お笑いオーディション番組に出演
―― 福岡時代は一時、吉本興業に所属していたと伺いましたが。
談慶:スポーツ新聞を読んでいたら、吉本興業が福岡地区に事務所を作るという記事を見たんです。それで、吉本に入って、放送作家として実績を作って、それを手土産に談志の所へ行けば、いい構図が描けるかなと思って。そんな淡い期待を持って、過去に作ったネタを(吉本興業へ)持って行ったんですね。そこで、福岡事務所の所長だった吉田武司さんという、明石家さんまさんの元マネジャーだった方に会ったんです。そうしたら、吉田さんが、自分が持っていった原稿をいきなりビリビリ破いて「こんなのどうでもいい。喋ってみいや」と言ったんですね。「ああ、これが芸能界の洗礼か」と思って。それで、喋ってみたら、「おもろいやんけ。それでええわ。再来週空いとるか」って言われて。テレビ西日本の『第1回激辛!?お笑い明太子』というオーディション番組に、いきなりトップバッターで出ることになりました。その番組には、カンニングの竹山さんと博多華丸・大吉さんも出ていました。
吉本はコンビの漫才が基本だった
―― その後、談志さんに弟子入りした経緯をお聞かせください。
談慶:まず、吉本は落語なんて考えていなくて、コンビの漫才が基本でした。ピンの芸人は育てないんですよ。コンビで名を売って、有名になったら一人で本を書いたり映画を作ったりする、というのがパターンでした。なので「まずはコンビでやれ」と言われて。でも、一緒にライブをしたカンニング竹山さんや博多華丸・大吉さんを見て、自分の実力との差を痛感して。「これは叶わないな」と思ったんですよ。その時はまだ「落語は修行があるから」と思って二の足を踏んでいました。それで、ピン芸人で何かできるかなと、淡い気持ちを持っていたんですけど、とても叶わないと。落語は、昨日演じた『紺屋高尾』のような古典落語という形があるので、修行を積んで形を身につければ、なんとか食べていける余地があるかな、と思ったんです。それで、ワコールは3年で辞めて、師匠談志のところに入りました。
師匠談志の「ファン」から「弟子」に
―― 弟子入り前、談志さんと直接会ったきっかけは何だったのですか。
談慶:師匠談志のところに弟子入りする前は、師匠のファンクラブみたいな組織に入っていたんです。立川流は、弟子をA、B、Cコースの3つのグループに分けてたんです。Aコースが前座から始まる従来の徒弟制度。Bコースは、ビートたけしさんやデーブ・スペクターさんみたいな有名人が入るコース。Cコースは素人さんの入るコースで、最初、そこに入ったんですね。ワコールに入社した直後でした。師匠談志は、ファンには優しいんですよ。ファンはお客さんだし、色々と聞かれたりすると嬉しいわけですよね。ファンも師匠に直に会って話ができるのは嬉しい。それでいい人だなと、この人に弟子入りするならいいかもな、と思ったんです。でも自分は人を見る目がないんですね、やっぱり(笑)。CコースからAコースに入ってファンから弟子に変わったわけなんですが、師匠は、弟子にはファンと真逆の態度で接する人でした。
「お前、立川ワコールになれ」
―― 談志さんの下での前座名は「立川ワコール」でしたが、これは談志さんが命名したのですよね。
談慶:1991年の4月に入門して、色々と怒られたりしながら、前座名をもらうまで1年2ヶ月かかったんです。師匠は東京新聞を取っていたんですけど、夕刊に、当時のワコールの会長だった塚本幸一さんの記事が載ってたんですよ。師匠がそれを読んで「この人は素晴らしい人だ。お前のいた会社は、いい会社だったんだなぁ」と褒めながら「お前、立川ワコールになれ」って言ったんです。会長の功績にあやかれ、みたいな感じで。
ワコールの社長「ワコールを名乗ることを拒否したら、 談志さんを怒らせて面倒なことになる」
―― ワコールから社名を名乗る許可をもらうまでの経緯をお聞かせください。
談慶:当時、ワコールの社長は塚本能交さんだったんですが、自分がワコールを退社する時、社長に辞職のための挨拶状を出してたりしてたので、面識があったんですね。師匠談志の福岡公演の時、師匠に挨拶をしてもらったりして。それで、社長に一筆書いて「ワコールを名乗らせて欲しい」とお願いをしたら、すんなり許可が出たんです。でも、後から聞いたら、ちょっと揉めていたらしくて。「ワコール」という名前自体が登録商標になっていて、例えば「ワコーレ」という不動産会社にも、その名前を使ってはいけないという法的処置をとったらしく、ちょっと敏感なものだったんですね。でも、最終的に社長が「あの談志さんを怒らせても得はないだろう」ということで、「ワコール」を名乗る許可を出したということでした。もし「ワコール」と名乗るのを拒否したら、師匠談志のことだから、絶対それをネタにして宣伝したりして、色々と面倒なことになるだろうと。「ワコールにいた人間にワコールと名乗ることを拒否するなんて、器の小さい会社だな」とか言われたりしたら、会社のイメージが悪くなるという配慮もあったと思うんです。「どうぞどうぞ、使ってください」という感じじゃなくて、「まあしょうがないから使ってもいいよ」みたいな感じで納得してくれたと思うんですね。
前座暮らしが長かったからこそできること
―― 1991年5月に立川流に入門された後、2000年12月に二つ目に昇進されるまで、9年半の「前座暮らし」をされていますが、その頃のことをお聞かせください。
談慶:入門する前に読んだ師匠談志の本に「古典落語を50本覚えれば、年数は関係なく誰でも二つ目に昇進できる」って書いてあったんですよ。自分は25歳で遅まきながら弟子入りしたんですが、月に4本覚えれば1年で48本だから、1年半くらいで50本覚えられるな、と思ったんです。それで、あらかじめ20本くらい覚えてから入門したんです。でも、いざ入門してみたら、師匠談志が「いや、落語は数じゃねえんだ。歌舞音曲、踊りと歌だ」とか言い出して。100メートル走って行く途中で「200メートルだからな」って言われるようなもんですよ。そういう(師匠と自分の)意識のズレが積もり積もったことが、前座暮らしを9年半に長引かせたんです。でも前座暮らしが長かったからこそ、今、師匠談志からくらった小言なんかを分かりやすく翻訳するように、本を書いたりできていると思うんです。今、色々とうまくいっていない人たちへのメッセージみたいな感じで。本の出版依頼は、どんどん来ているんですよね。
「俺に殉じてみろ」。そんな殺し文句を言われた
―― 通常、落語の前座暮らしは5年前後と言われていますが、その間、焦りなどはありましたか?あったとしたら、それをどう克服されたのでしょうか。
談慶:当然、焦りはありました。自分よりも遅く入った人間が、先に二つ目に昇進して真打ちに近いところまで行くわけですよね。でも、師匠談志が自分のあまりの不器用さを慮ってくれて「俺に殉じてみろ」って言ってくれたんですよ。俺に命を掛けろ、ってことです。殺し文句ですよね。そして「15年かかって二つ目になって、30秒だけ二つ目をやって、その30秒後に真打ちになれ。お前がどんなに嫌な奴だったとしても、俺の基準さえ満たせば二つ目にする」と言ったんです。逆に言えば「どんなに好きな奴でも俺の基準を満たさなければ一生前座」ってことです。それで、少なくとも自分は、談志に認められて真打ちになりたいと思ったんです。それでもう「談志に向き合うしかない」と思ったんですね。
談志さんは激しい「無茶振り」の人だった
―― 談慶さんから見た談志さんは、どんなお人柄でしたか?
談慶:師匠談志は、激しい「無茶振り」の人。そして、自分と同じ価値観の人間をとことん大事にする人でした。でも、価値観が理解できるまで手間をかけさせる人でした。一方で、非常にロジカルな人でもありましたね。その人が好きか嫌いかは関係なく、自分の設定したハードルを超えた人を昇進させる。えこひいきしない、公平な人でした。とどのつまり、優しい人だったんですよね。自分は9年半かかって二つ目に上がったんですが、二つ目から真打へ上がるのは早かったんですよ。9年半かかって師匠と自分との間のパスワードを読解したわけですから、じゃあ、そこからは速いぞという感じ。踊りと歌をよく教えてもらって、二つ目からは3年と少しで真打になりました。
キーワードは「江戸の風」
―― 談志さんは、例えばどんな価値観を持っていたのでしょうか。
談慶:師匠の価値観の1つとして、昔、寄席で流行った踊りを身につけてないと絶対昇進させない、というのがありました。最後に談志は「江戸の風」という定義を言い残して、この世を去って行ったんです。「江戸の風」とは何か。自分たちが師匠から受け継いでいくことは何か。それを考えると、寄席が華やかなりし頃、談志が接した歌舞音曲にその答えがあるんだと。そういう部分をちゃんと身に付けた芸人が、これから残っていくということだったんです。談志の落語には、その「江戸の風」が吹いているんですね。
「師匠談志は、本当に優しい人だった」 前座は踊りや歌で、真打ちでは落語で、というのが評価の基準だったのではないかと思います。踊りは「かっぽれ」とか「奴さん」とか、寄席の決まった踊りです。歌も、近くの端唄や小唄の先生のところに行って習うんですけど、落語の中の歌なんだから鼻歌でいいのに、違う感じで歌っちゃったりして。師匠には「お前といると、歯がゆいんだ。いつも違う方向へ行っちまう」と、よく怒られていました。でも自分が真打ちになった時「こいつは『こっちへ来い』と言うとあっちへ行ってしまう。いつもあべこべをやってしまう、ドジな奴でした。でも今、真打ちになったということは、これまでにやってきたことが芸の幅になっているということなんです」と言ってくれた。そんな具合に、いつもちゃんと「救いの言葉」を与えてくれました。そういう意味では、本当に優しい人でしたね。
ハワイの「のんびり感」は 地名の語感によって増幅している
―― 今回、初めて来られたハワイの印象は。
談慶:明日、もう帰るのが惜しいというか、悔しいです。ハワイ、ホノルル、ワイキキという語感がフワフワしている。濁りがないですね。のんびり感が語感によって増幅するみたいな感じです。そして、日本よりも19時間、大体1日遅れじゃないですか。15日の夜に飛行機でホノルルへ来まして、着いたら15日の朝というわけですよね。ということは、10月15日を2回経験したことになる。日本人は急ぎすぎている、ハワイが後から追いかけてくる、という感じがしました。そんな感じで、日本で仕事に疲れた人がこちらへ来て癒してもらっているのかな、と。同時に、ハワイが日本から1日遅れて時間を刻んでいるということに地球の広さを実感しました。あと、ハワイは空気がきれいだし、湿気もない。普通、こんなに日差しの当たるところなんて暑くて仕方がないと思うんですが、ハワイではそこまでの暑さを感じない。「これはいいなぁ」と思って。来た瞬間から永住したいような気になりました。
「ハワイに住む日本人は日本語に対する感受性が強い」と感じた
―― 日本のお客さんとハワイのお客さんを比較して、反応に違いはありましたか?
談慶:海外で本格的な落語会をやったのは今回が初めてだったんですが、お客さんは日本を離れてハワイで生活している方がほとんどということで、日本や日本語に対する思いの丈とか、共感が強いなと。日本語の言葉に対する感受性の強さは、日本に住む人たちよりもハワイに住む人たちの方が強いんじゃないかな、と思いました。
英語圏の人にも落語を楽しんでもらう「字幕落語」
―― これから、海外に落語を広めるための活動の予定などはありますか?
談慶:来年の1月、埼玉で、英語圏の人にも落語を楽しんでもらうための「字幕落語」というのを企画しているんです。これは文化庁の国際交流基金の支援も受けています。でも、落語の一字一句、全部英訳したら落語のリズムが崩れちゃうので、昨日演じた『転失気』のような短い噺のポイントを、絵とか、英語の単語にするという形にしようと思っていて。例えば、タヌキがお札に化ける噺で、その絵と、ポイントになる単語をスクリーンに映すという感じですね。そういう形で、英語圏の人にも「落語を聴いて想像力を働かせる」というのを楽しんで欲しいと思っているんです。それで落語に興味を持つきっかけになればいいなと。昨日も客席にアメリカ人の方がいたんですが「2、3カ所分からないところがあったけど、筋は全部わかった」と言っていました。逆に、分からないところがミステリアスな響きを持てば、後の落語への興味に繋がると思うんですね。