自然染織家、そしてテキスタイル・アーテイストとして、日本だけでなく国際的にも高い評価を浴びている伊豆蔵明彦さんが、1月から2月にかけてハワイに滞在し、ハワイ大学、ホノルル美術館リネコナ・センタ ーで 『LIFE IN COLORS 2012 HAWAII」という展覧会を開催。同時に、いくつかのワークショップも行っておられます。自然との共生をめざし、何も無駄にせず、環境に配慮した彼の生き方と作品、これまでの研究成果を凝縮して生み出した「染色道」は、ハワイのローカル・コミュニティーでも反響を呼び、注目を浴びています。今回は、伊豆蔵さんに、これまでの歩み、創作活動と染織事業の基本となっている思想などについてお話を伺いました。
ライター:下吉陽子
いのちのいろどり
染織を通して自然への畏敬を表現し、自然との共生をはかる
家業の継承を機に、染織の本質を探求
-ご家業が、何代にもわたって、西陣の帯 を作っておられたと伺いましたが。
そうです。大学に入った時、当時の日本はアルバイト時代で、私もアルバイトを始めようと思っていたら、父が、 「よそへ行くなら、家業を手伝え」ということで、手伝い始めました。ところが、始めてみたら、父と意見が合わなくて、毎日喧嘩になるんです。
父からは、 「そんな生意気を言うな」と叱られまして。それが3か月続いて、その時に、 「じ ゃあ、私がやめるか、父がやめるかどちらかにしよう」ということになって、結局、「父が 一切口をはさまないなら、私がやろう」ということで、私がやることになりました。そして、大学1回生の6月から、経営を引き継ぐことになったのです。
-お父様は随分度胸がありましたね。
そうですね。世間ではよくそう言われます。でも、当時の私にはわからなかった。それで悪戦苦闘して、大学と家業を両立させました。でも、ほとんど学校には行きませんでした。
僕は同志社大学で経済を専攻していたのですが、たまたま大学が近くにあったので、僕は家業をやることで、実際に中小企業 の伝統産業の現場がどうなっているかを教授に報告し、そのかわりに教授達が家に来てくれて、アカデミックな学問を教えてくれるということで、何となくバランスがとれて、それで何とか卒業させてもらいました。
ーよく頑張られましたね。
それだけではなくて、家業と大学を両立させながら、夜は何のために織物をやるのかを、ずっと追求し続けていました。ですから、実際には3つのことを一緒にやっていました。
織物については、現代で使われている道具から、どんどん色々なものを省いてシンプルにしていって、最も原始的な形に戻すことを試みました。学生時代はそれをずっとや っていたのですが、とても1本の糸を作るところまでたどり着かなかったのです。
それで、大学卒業と同時に研究所を設立して、人を雇い、 「織る」、 「組む」、 「編む」、 「絡む」の4つ のチームに分けて、研究して貰いました。
ーそれを研究しようと思われたきっかけ は何だったのですか。
私が家業を始めた時に、なぜ織物をやるのかについて、京都の伝統産業の人達からは学べなかったのです。皆、お金儲けが主体になっていて、私はそうじゃなくて、もっと本質的なことを学びたかったのです。そういうことを年がら年中考えていました。
ー結構早熟でしたね。
そうですね。ですから、大学を出て、社会人になっても、会社勤めをすることは考えられないことでした。一日でも耐えられない。
何故かと言えば、会社勤めをすれば、自分では間違っていると思うことを上司に言 われても、それをやらなければならない。妥協して自分の意志と違うことをやるくらいなら、自分で事業をしてうまくいかなければ餓死したほうがいいとまで思っていました。
最も大切なのは自然と向き合い、自然と共生する生き方
-最初から、経営をなさりながら、ご自分 でも創作されていたのですか。
当初は経営だけで、創作活動はしていませんでした。31才になった頃から、休みの時に創作活動を始めました。円運動と人工的な動きを組み合わせて、タピストリーを つくって、日展にも40才頃まで出品していました。展覧会も、出品したものはすべて通 っていました。
ところが、そんな時に京都市美術館が5人の織物作家を集めて展覧会をやるということで、声をかけてもらって、それぞれが一室を貰い、そこに自分で作品を並べてみたのです。その時、「何と言う浅ましい気持ちでやっていたのだろう」ということに気付いて、打ちのめされました。
-それはどういうショックだったのでしょ う?
競争社会の中で、他人より目立っていいものを作りたいと思っていたのですね。他人を蹴落とすことについてですね。化学的染料を使えば、どんな色でも好きな色が出せたのですが、それで人をあっと言わせるような美しいものを作ることが素晴らしいと思っていた。
でも、そんなものは美しいものではない。そもそもそれが大変な過ちだと気付いたのです。それで、その反省から、自然との調和を目指す方向、自然染織に大転換しました。工場もすべてです。大変な冒険で、最初はビジネス的にも大変でした。でもその時は、ビジネスはつぶれても良いと思ったのです。
業界の人達からも、時代の流れと逆行している、非合理的である、自然染織では時間とともに製品も変色する、と猛反対されました。でも私は、自然は変 わるのが当たり前であるという考えで、自然染織に切り替えたのです。ですからその時に、私のもとを去って行った人も多くいます。
ところが、今度は一般のお客様の中に受け入れてくれる人達が出て来て、応援してくれるようになりました。
-今は、ビジネスは順調ですか?
ビジネスは3年前に息子二人に譲って、今は自分の創作活動だけをしています。息子たちは、ブランドとして私の名前を使 っていますし、自然染織もしていますが、父が僕にしてくれたのと同じように、私も息子 達のビジネスには一切口を出さないようにしています。
-創作活動では、何を重点とされているの ですか?
自然の中で、太陽、水、時間の経過を利用して、それに最小限の手を加えることで、自然の美しさを表現したいと思っています。これまでは火を使って染料を作っていたのですが、それを使わず、太陽と時間の経過による水の循環だけでやるようにしています。
絹糸も、今までは火を焚いて熱を加えて作っていたのですが、長時間水につけておいて、そこから糸を作ることに取り組んでいます。これが、私の 「染織道」の中の 「太 陽染め」なのです。ですから、人によっては、「逆産業革命」と呼ぶ人もいます。
-染織の素材は絹ですか。
そうです。いつも絹、綿、麻などの自然の素材、染料も草木、花、虫のいのちを利用したものを使っています。京都では、蚕を自宅の地下室で作っています。通常は、蚕は、一匹ごとに繭を作るのですが、150匹を一緒にまとめて、団体行動をさせて、大きな繭を作って、自然から身を守る方法論の実験をしています。
-自然の力を最大限に生かすことで、表現 をしていくということですね。
私は昔から、どのような人でも、自然と向き合って生きて、自然と向き合って仕事をすることにより、驚くべき創造力、技術力が生 まれてくると信じています。
どういうことかというと、AさんBさんCさんがいた場合に、誰が良いというのではなくて、AさんならAさんのパーソナリティ一をどこまで妥協なく 生かしているかが大切で、それぞれが違っていても、全く構わないと思うのです。
-それは染織だけでなくて、生きているこ とについての哲学なわけですね。
そうです。私の場合は、どんな考え方でテキスタイルと付き合っていくのかということなのですね。ですから、私はテキスタイルだけれども、人によって、音楽なり、文学なり、学問なり、それぞれの分野で自分のパーソナリティを活かしていけばいいと思っています。
自然と向き合い、自然と調和して生きること、自然との共生が一番大事だと思います。現代社会が気をつけなければならないのは、はじめに人間があるのではない。はじめに自然があるのだから、その次 に人間がある。そういう謙虚な気持ちが大切だろうと思って、常に自分の活動をして行こうと思っています。ですから、今は作品の制作も、何も無駄にせず、捨てないで、すべて持続可能な方法で行っています。
-伊豆蔵先生がご自身の活動を通して訴 えたいことは何ですか。
長い年月を経て先人達が培って来た智慧の結晶をまとめて、自然からいただいた草木、花、虫のいのちからつくられた糸を紡ぎ、色を染め、布を使うという染織の技を、「染織道」という作法にまとめました。
それを多くの人々に広く伝えて行きたいと思っています。そして、テキスタイルを通じて、自分の考え方を示して、それに社会が目を向けてくれたら良いと思っています。
-織物以外に、普段の生活でもそれを心 がけていらっしゃるのですか。
実は2001年に妻を亡くしたのですが、それまでは、食べ物も化学調味料を使わずに自然の素材の持っている味を引き出すことをしていました。玄米を食べて、すべて無農薬の野菜を使った食事をしていました。妻はそれに時間をかけてやってくれていたのですが、今は1人なので、時間的余裕がありませんから、そこまで徹底してはいません。