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インタビュー

日系移民の歴史を支え続けた『小林トラベル』創業125年

私たちがハワイで、快適に暮らしたり観光ができたりするのは、日系移民のみなさんのおかげだ。太平洋戦争時には捕虜として隔離され、また一方で日系アメリカ人兵士として、最も危険な戦地で戦うという、 過酷な歴史を生き抜いてきた人々。 日系移民一世、二世、三世たちが代々、民族も生活文化も違うハワイで、地道に働き、勤勉に学び、戦争を乗り越えて交流し、融合することで培ってきた信頼関係。現在、ハワイの社会は、政治も企業も多くの日系人が支えている。 今年、創業125年のアニバーサリーを迎える、『小林トラベル』。副社長の小林達吉さんのファミリーヒストリーもまた、 日系移民の歴史そのものだ。

 

達吉さんは御年92歳の現役、 日本の旅プロ、旅行プランナー

 まず驚いたのが、小林達吉さんは御年92歳の今も現役、バリバリの仕事人であるということ。ハワイの日系人が日本に旅行に出かけるツアーを自ら企画する、旅のプランナーなのだ。達吉さんが企画した、新年3月の“東海道オデッセイ”も、4月の“東北お花見の旅”も、すでにソルドアウトの人気ぶり。 「さすがにツアコンはしなくなりましたがね(笑)」  

 耳も達者、目も達者。125年にも及ぶファミリーヒストリーも、副社長室のあちこちのファイルボックスから資料を取り出しながら、明快に話し聞かせてくれた。

「私らは広島出身です。移民は西日本からが多くて、とくに広島は多かった。私の父の兄にあたる、叔父の卯之助は明治25年にハワイに移民しました」  

 日本の移民の歴史は、オフィシャルには1885年から始まる。当時ハワイではサトウキビ産業の労働者不足が深刻だった。砂糖を輸入していた日本は、財閥系の商社が動いて、ハワイ王朝と日本政府で条例を結ぶに至り、“官約移民”を発足。日本各地で移民を募った。そして1885〜1900年までに、7万4千人もの日本人がハワイに移民した。1894年にハワイ王朝が消滅したため、移民手続きは民間にゆだねられた。それを“官約移民”と区別して、“私約移民”とよんだりする。

 

 

1892年、私の叔父が、移民を引率してハワイに来ました

 当時、達吉さんの叔父の卯之助さんは、村の助役をしており、移民を募るような仕事をしていたという。責任感が強かったのか、卯之助さんは助役をやめ、若い移民希望者を大勢引き連れて、自らも移民してきたという。

「船でホノルル港に着くと、移民局の検疫場に入れられて尋問を受けて、2日〜1週間ばかり検疫のために足止めをくらうんです。叔父はその手続きのサポートをした。私約移民の、ハワイサイドでの受け入れ書類の代行とか、世話とかをね。それと、オアフ以外のマウイ島やカウアイ島のプランテーションに行く人には、船の手配などもした。そういう移民の人たちの、新開地への移動のための旅行業が小林トラベルの始まりなわけです」

 

達吉さんの父が、小林旅館を継ぎ、 新婚移民の住民登録代行なども

 港のそばに、移民が待機中に寝起きできる場所も必要だった。今のチャイナタウンのヌアヌ川の向こうの、スミス街にジャパンタウンがあり、最初の小林旅館はそこに建てられた。辺りには同じような日本人旅館が6〜7軒あったという。

「叔父は私の父も呼び寄せて、片腕として一緒に何年か働きました。そしてハワイの事業を全て父に譲って、帰国しました」  

 達吉さんの父、金次郎さんも移民の人々の暮らしを支えた。

「移民は一旗あげたい若い独身者が多かったからね、プランテーションでの仕事に目どがついてくると、所帯を持ちたくなる。すると国許の親や親戚が嫁さんを探して、移民花嫁を送り出すんですよ」  

 会ったことがないばかりか、顔さえ知らない結婚、または手紙で双方の写真を送り、数回の文通で決心をする結婚。たった一人で海を渡ってくる花嫁の気持ち、ホノルル港に迎えに行く花婿の気持ちはいかばかりだったのか。 「ハワイでの住民登録などの代行もしましたよ。小林旅館は移民の人たちのよろず相談所みたいだった」  

 1909年、初代小林旅館は木造だったために火事で焼失する。2代目の小林旅館はアアラ公園の前に鉄筋コンクリートで立派に建てられ、繁盛した。しかし父、金次郎さんは達吉さんが生まれる3ヶ月前、1924年に亡くなってしまう。小林旅館は、母や達吉さんの兄弟が引き継いだ。

 

 

日本で教育を受けました。 終戦は中国、死にものぐるいで帰国

「私は7人兄弟の末っ子だったので、兄たちが母を助けました。旅行業の仕事で日本とハワイを行ったり来たりしていた母は、私の教育は日本の方が良いと考えたんですね。私は小学1年生から日本に行き、広島の学校に通いました。戦争を挟んで大学卒業まで日本で過ごしました」  

 小学校では日本語が分からずに苦労して、大学卒業後、ハワイに戻ってからは英語がわからなくて苦労して、辛抱と苦労の連続でしたねと笑う。 「戦争中は中国にいたため、敗戦後は間一髪で、ロシアの強制労働所送りでした。食べるものがなく、本当にひもじい思いもしました。死にものぐるいでなんとか、鹿児島行きの船に乗れて帰れて。広島の実家は原爆でなくなってしまったと聞いたけど、汽車の中で実家のあたりは無事だと聞き、行ってみたんです」  

 母が、いてくれた。

「何十日も風呂に入っていなくて、顔も体も汽車の煤で真っ黒で痩せこけて、私を見た母はしばらく呆然と立ち尽くしていました」  

 終戦後は、慶応義塾大学に復学し、経済学を学んだ。卒業後は家業を手伝うためにハワイへ。

「1956年に小林旅館をコンクリート造りにする改築工事が始まり、正式に小林トラベルも設立しました。その頃はまだ自由旅行は認められていなかったから、日本人観光客はほとんどいなかったね。ワイキキもモアナサーフとロイヤルハワイアンのホテルと、今はもうないホテルがぽつぽつと。ハレクラニはコテージの小屋があるだけだった」  

 当時、日本とハワイ間は週1回のパンナム便だけ。プロペラ機で途中、ウエーキ島で給油してから、という長いフライトだった。アラモアナセンターが開業したのが1959年、その数年後、日本政府は海外留学を認可。ハワイ大学にも日本人留学生の姿がぽつぽつと見受けられるようになった。

 

 

1970年ジャンボ機就航で、 ハワイ旅行は日本中の憧れの的に

 1954年、JALが初めてハワイ定期便を就航した。

「うちの旅館はクルーの定宿でした。パイロットやパーサーは一人一部屋を割り当てられ、スチュワーデスは、旅館の裏にある一軒家が借り上げられて使っていました」  

 旅館の前のアアラ公園には、ハワイ相撲協会が作った土俵があった。ハワイアンの若者が稽古をしたり、大相撲ハワイ場所も行われていた。

「日本とハワイの間にジャンボジェットが飛んだのが1970年。これが本格的なハワイ観光の始まりでしたね」  

 日本からの観光客が一気に増えた。

「ワイキキに大きなホテルがどんどんできたから、旅館営業から観光ツアーの事業にだんだん移行しました」  

 ホノルルジャルパックもできて、小林トラベルは提携。島内のバスツアーを請け負うようになった。

「バスツアーの専門会社を設立して、本格的にやろうということで、1980年に小林旅館を閉館して、その土地をバスの駐車場にしたんです」  

 ふと、達吉さんは古い旅券を取り出して見せてくれた。大正時代のパスポートだ。

「大正時代の終わりに沖縄からハワイに嫁いできた女性がおってね。彼女のお姉さんも同じ頃にブラジルに移民花嫁で嫁いで行って。ところがその時、姉妹で旅券を取り違えて持って行ってしまっていた。その姉妹の、ハワイにおるほうの妹が20年ほど前、ブラジルで大きな日系人の集まりがあるので、お姉さんに会いにブラジルに行きたいと、小林トラベルに相談に来たんです」  

 達吉さんは、沖縄県に掛け合い、戸籍の確認やら旅券の再発行の交渉を一手に引き受けた。アメリカサイドへも多くの手続きが必要、ブラジルのビザの書類も必要と八面六臂、手助けした。

「日系移民は昔っから、助け合いながら生きてきましたから」  

 姉妹は晴れて、70年ぶりに再会を果たした。

「仕事はね、できる限り続けたいです。ハワイから日本へのアウトバウンドの旅は、日系人にとって自分のルーツ探しのような側面もありますからね。心を込めた旅になるよう企画します。7割もの人がリピーターですから、喜んでくれたらそりゃもう嬉しいです」

 

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