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デジタル版・新聞

インタビュー

日本女子大学 文学部 島田法子教授

ブラジルの写真花嫁について

私の専門はアメリカ研究なので、大学ではアメリカの歴史・文化・社会事情などを教えています。日系移民の研究者は女性が多いのですが、アメリカ研究も比較的に 女性が多いです。学会に行くと半分くらいが女性ですし、不思議ですね。アメリカ研究という専門 の学科があるのは同志社大学ですね。

 

それ以外は東京大学·一ツ橋大学・日本女子大・津田塾大学でしょうか。私は日本でアメリカ研究が始まった頃に学生でした。 日系人の短詩型文学を研究するようになったのは、やはりハワイに来たことがきっかけだったと思います。最初にハワイに来たのが1983年で、それから定期的にハワイに来ています。

 

最初にハワイに来た時は、ハワイ大学で 行っている 「アメリカン ・ スタデイ」のセミナ一を受けるためでした。ハワイ大学では毎年「アメリカ研究」のセミナーが開催されています。私の専門は「アメリカ研究」なので、アメリカ学会から派遣されて参加させ て頂きました。

 

そこで色んな資料をハワイ大学で見るようになり、移民の文化に興味を持つようになりました。そして1年間のサバティカル(研究休暇)にハワイ大学を選ぶことになりました。私は日本の移民研究会のグルー プのメンバーでもあります。

 

この 団体は移民研究会の中ではかなり古いもので、今でも毎月1回研究会行っています。 ハワイ大学で資料を調べているうちに、「戦争花嫁」について論文を書きたいという学生がいたので、ハワイのリサーチを任 せることにしました。

 

アメリカ本土とオーストラリアが戦争花嫁」の研究をされている先生とチームを組んで研究することになり、私は専門ではなかったのですが、ブラジルの「写真花嫁」を担当することになりました。そういうわけで、ハワイ・北米・ブラジル・オーストラリア・韓国の 「 写真花嫁」と「戦争花嫁」に関する国際的な研究グループを作りました。

 

あまり知られていませんが、韓国からもハワイにたくさんの 「写真花 嫁」がきています。ブラジルには戦後「写真 花嫁」として日本の女性がたくさん渡っていますが、それを知っている人はあまりいませんでした。それでサンパウロに調べに行かせて頂きました。

 

戦後、日本の農家の次男・三男は就職がとても困難な時期がありました。ブラジルには成功した日本人移民がたくさんいたのですが、彼らは後継者がいなかったので、 日本の農村の有能な青年たちをを求めていたのです。

 

そこで日系人のコチア協と日 本の農協が契約を結び、日本人の青年をブラジルで約2300人くらい引き受けました。それで日本人の青年がたくさんブラジルに渡ってゆきました。コチア青年移民と呼ばれています。 ブラジルに追いてから日本人の農家に配置され、農業について数年学び、その後は独り立ちできるというプログラムだったようです。

 

ブラジルの移民は特殊で、殆どが「家族移民」でした。定住するためには家族が必要だったのです。しかし、コチア青年移民は後継者を育てるためだったので男性だけ を募集しました。そうなると、20歳過ぎてブ ラジルに渡り、独り立ちするときは結婚の適齢期になっていますが、周りにはあまり結婚相手がいないわけです。

 

日系人はたくさんいましたが、移民に来たばかりのどこの者とも分からない人に娘をあげたくないと思う人が多かったからです。青年たちは日 本語しか話せないので現地の方と結婚するのも難しい。それで日本からお嫁さんを呼びましょうということになりました。古年たちは日本で花嫁を募集することにしました。

 

その頃日本はまだ海外に自由に渡航できない時代でした。ですから 「海外に出たい」という元気な女性がたくさんいたのです。700名を超す日本女性が、写真でお見合いをしてブラジルに花嫁として移住しました。そういう女性は農村の女性 ではなく、丸の内や官庁に勤めていたような、学歴も高い女性が多かったそうです。こ れは興味深いですね。

 

その人たちは農村に嫁ぐと分かっていてブラジルに渡ったのですが、やはり最初は大変でした。行った翌日から畑で働かなけ ればならなかったのです。OLさんだった人が畑で働き、自分でドロ壁を塗って家を作り、お風呂は家の外のドラム缶。そういう生活を始めなければならなかったわけですから。

 

私はブラジルでそ の人たちに インタビューをしたのですが、皆さんとても明るくて元気でした。大変な時代を乗り越えて、成功して安定した老後を迎えている人が多いようです。初期の移民で大陸に渡って苦労した写真花嫁は良く知られていますが、戦後ブラジルに渡った写真花嫁についてはあまり取りあげられていないので、それを紹介することはとても意味があると思いました。

 

JICAの研究班としてその研究をまとめて、後に 「戦争花嫁」と 「 写真花嫁」の展示会を横浜の海外移住資料館で開催しまし た。その時皇后陛下も見に来てくださいました。皇后陛下は戦争花嫁のことをとても大事に思い、戦争花嫁の団体が日本を訪れるときは必ず皇居にお呼びになり慰安し てくださる方です。

 

皇后陛下は移民の人々からの深い信頼を得ています。皇室は移民とつながりがとても強いのです。移民記念祭などには必ず皇室の方が出席しています。それは、日本人が海外に出て行って苦労しているということを、自分の国の大切なひとつのグループとして見ていらっしゃるからだと思います。

 

 

ハワイでは「戦争花嫁」ではなく「軍人花嫁」

『俳句・短歌・川柳にみるハワイ日本人移民史』

 

ハワイの戦争花嫁は2000人くらいと言 われています。本土の方は何万人もいます。戦後から1965年の移民法が成立するまでの間に、何万人もの女性が軍属の人と結婚しています。ハワイでは「戦争花嫁」ではなく、なぜか 「軍人花嫁」という言葉が一般的です。不思議ですが呼び方が違います。

 

1952 年に 「マッカラン ・ ウォルター法(移民国籍法)」が制定され、アメリカ人と結婚 した女性は移民の枠外でアメリカに入国できるようになりました。 戦後、戦争花嫁でアメリカに渡った人たちは、日本国内ではあまり良く思われていなかったと言えます。

 

敵国の兵隊さんと結婚するわけですから、祖国を裏切るように 見えたり、貧しい日本から豊かなアメリ力に逃げるように思われてしまつて、長く差別されていました。ですから 「戦争花嫁」という名前を使いたくないという時代がありました。

 

しかし、 「自分たちは民間大使だから何も恥ずかしいことはないし、日本人として根付いて日本の文化をアメリカに紹介し、二世を立派に育てあげた誇りがある」として、戦争花嫁を一つにまとめてグループを作るという時代がきました。

 

最初に戦争花嫁が集まるときに「戦争花 嫁」という言葉を使って欲しくないという方がたくさんいたそうです。代わりに 「国際結婚」という言葉を使って欲しいという。でも、全然恥ずかしいことではないという考え方もあるので、二つの考え方があったようです。

 

最初のリーダーはスタウト梅津和 子さんという方で、横のつながりが何もなかった時代に 「一緒にグループを作りま しょう」と何百通という手紙を喜いて呼びかけて第1回大会が成功したのです。 やがて各地で大会が開かれるようになり、ハワイで開催されたこともあります。

 

今年はシアトルで開催されました。日本でも開催されたことがあります。 ハワイの場合は戦争花嫁のグループはなく、男性も含めて帰化した人たち全体でひとつのグループを作っています。ハワイには日本人の社会があるので、社会に溶け込んでしまえる。ですから、わざわざ軍人花嫁の集まりを作る必要がなかったのでしょう。

 

 


島田法子(しまだのりこ)

1944年生まれ。アメリカ・シラキュ一ス大学歴史学科M.A.アメ リカ史、アメリカ地域研究専攻。日本女子大学文学部教授。専門 はアメリカ史•アメリカ研究・移民研究。日本移民学会編集委員 長・運営委員、アメリカ学会評議員・理事、アメリカ史学会。『戦 争と移民の社会史』(現代史料出版)他著書多数。


 

 

(日刊サン 2019.11.11)

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