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デジタル版・新聞

インタビュー

サンライズレストランオーナー 玉寄朝勝さん

ハワイヘのビザを待ちながら、屠殺のアルバイトも

結局日本の高校には進学せず、中学を卒業してハワイに渡る手続きしている時に、従兄の経営している肉屋でアルバイトをしていました。

 

その頃は悪いことばかりしていました。肉屋では屠殺もしていたのですが、牛を殺す時、牛が涙を流すんです。その時は、 「牛が涙を流しているよ」といって、笑っていたんです。

 

でも、教会に行くようになってからは、 「なんてむごいことをしたんだろう」と思うようになりました。肉屋でアルバイトしていた頃は、仲間がみんな同じくらいの年だったし、とても楽しかったです。

 

でも、その時はちよっと変な道に向かっていたんです。仲間が万引きをしたりしていました。ある時は、仲間に「やめろ」つていったんだけど万引きして、やくざに囲まれて、みんなぼこぼこにされた時にも、たまたま私が止めていたのを知って、私だけ殴られないで済んだようなこともありました。

 

 

大好きなハワイに住むために調理師に

いろんな悪いことをしましたが、手続きが終わってハワイに来て、叔母のもとから、本 願寺ミッションスクールに通うようになりました。叔母は結構美人で、ダウンタウンで 「クラブよしこ」という店をやっていたんです。

 

本願寺に2年間通った後で、ファリントン高校に進学しようとした時に、体調を崩してしまい、日本の家族が心配して「帰ってこい」ということで、一旦日本に戻ったんです。 その時までには、ハワイが大好きになってしまっていたから、ハワイに戻れるようになりたかった。

 

当時、沖縄の肉屋で働いていた時は1 か月62ドル貰っていたんですが、ハワイでは、叔母の店で皿洗いをして、 1か月に200ドル貰えました。1ドル360円の頃でしたから、その時、沖縄はハワイよりも50年遅れてると感じました。今はもちろん違いますけどね。

 

それで、沖縄に戻ってから調理師学校に行きました。調理師の免許をとって、沖縄の 寿司屋でも修行して、今度は働くためにハワイに渡ったんです。

 

ところが、ビザを取るのがだんだん難しくなっていて、疑わしいケ一スということで難航しました。移民局に何度も呼ばれて、大変でした。

 

実は、当時は既に結婚していたので、妊娠中の妻と一緒に観光ビザで入って、 叔母のところで働き始めていたんですね。 移民局では、 「働くつもりで来たんでしょう?」と言われて、「違います。観光で来たら、ハワイが好きになったので、ビザを申請しているのです」と返事をしていました。

 

「じゃあ、その間にはどうして食べているんだ?」 と言われて、お金を2万ドル借りて証明書を作って持って行ったりもしていました。そんなやりとりがあって、また呼ばれた時に「最初から働きに来たんでしょう?」と聞かれて、 「違います」と応えた。

 

そうしたら、担当の人が立ち上がつて、 「あんたの送別会、何月何日、どこで誰と誰が出席」と、沖縄で送別会の場にいた人達の名前を言われちゃったんです。

 

全部調べられていた。それで観念して、 「すみませんでした。皆さんをだましていました。叔母が店をやっているから、そこで働くつもりでハワイに来ました。私はどうしてもハワイが大好きで、ハワイに憧れてきました。本当にごめんなさい」と言って頭をさげたんです。

 

弁護士は、「言うな、言うな」としきりにサインを送って来ていたんですけどね。そうしたら、今までこわかった移民局のおじさんが、子どもを抱いて、「この子はここで生 まれたんでしょ。あなた達はこの子のために頑張りなさい」と、ビザをくれたんです。

 

 

寿司職人を経て、「サンライズレストラン」をオープン

最初は「ふるさと」レストランで2年問働きました。子どもがいて生活が苦しかったから、叔母の店で働きながら、2つ仕事をしていたんです。その後、マカロア通りにあった、 「貞レストラン」で11年働きました。忙しい店でした。

 

ちょうどバブルの頃で、日本から石原裕次郎や、相撲取り、ゴルフの尾崎 なども来ていました。その頃までには叔母もリタイアして、店はなくなっていました。

 

貞の後は、江田屋で働いていました。 その後、1998年に離婚したこともあり、 100日間ぐらい、何もしないでぶらぶらしていました。 それまで仕事を休んだことなか ったのが、毎日朝から酒を飲んでいました。

 

その時、一番上の姉が会いに来て、「これじ ゃいけない。店をやってごらん。このままじ ゃお前はだめになる」と言われて、それで店 を探し始めたんです。

 

でも、手元には5万ドルぐらいしかなくて、どこを探しても、10万ドルぐらいするので、高くて手が届かない。そんな時、ある晩、ここの前を通ったら、沖縄の人が店をやっているのを見て、沖縄そばでも食べようかと中に入ってみました。

 

そうしたら、以前叔母の店で働いていた人がオーナーでした。 「久しぶりだね。叔母さん亡くなって 何年かな」などと話しているうちに、その人が 「店は疲れる。自分でやるのは大変よ。あなたがここを買ってやりなさい」と言い出したんです。

 

「お金がないんだけど」というと、「お金はなくても、内金入れてちょこちょこ払えば大丈夫だから」と言ってくれた。ところが、誰かに 「この店はパーキングもないし、誰がやっても流行らない場所だ」と言われたんです。

 

でもよく見ると、向かいがゴルフ場で、道の向こう側のパーキングは沢山ある。これだったら、パーキングがなくても歩いて2、3分だから来てくれるかもしれないと思いました。

 

また、車の流れを考えると、ワイキキから帰るには、カパフルかマッ カレーの道しかないわけですよ。カイムキには、カパフルからこの店の前の道を通って 帰って行く。これならワイキキからも近いし、結構いけるかもしれないと思って、ここに店を開けたんです。

 

実は、ハワイにはもう1人叔母がいて、その叔母はシェルダン通りで 「サンライズ・ コーヒーショップ」というレストランを10年間やっていました。それを引き継いで、叔母の味で、 「サンライズレストラン」という名前で始めたのです。その叔母は、今も健在で、毎週金曜日に、店を手伝いに来てくれています。

 

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