カパフルにある人気の沖縄レストラン、サンライズレストランは、いつも常連客で賑わっています。沖縄料理と寿司の味はもちろん、名物オーナーシェフの朝勝さん、奥さんの朋子さんを目当てに通い詰める顧客も多いそうです。日本からの観光客にも人気で、初めて訪れる人も、いつの間にか家族の一員のようにくつろいでしまうのが、ここの特徴。今回は、オーナーである朝勝さんの笑顔の秘密と、その笑顔の源となっている朋子さんに、お話を伺いました。
ライター:下吉陽子
ハワイで沖縄を味わう
おしどり夫婦を囲むオハナの輪
母に教わった「ちゃー、笑いかんとうて(いつも笑顔で)!」
出身は、与那城村の屋ケ名というところです。今は沖縄県うるま市になっています。 1954年12月12日生まれで、育ったのも沖縄です。母は、沖縄で古くから伝わる「ユタ」という霊能者でした。
私の家庭は複雑で、実は、親父と母は結婚していないんです。母には子どもが5人いましたが、私はその末っ子です。母は、最初の夫、長男と次男を戦争で亡くして、再婚して3人の娘を生み、そのうち、どういういきさつかはわかりませんが、親父と仲良くなって私が生まれたんです。
私は母に育てられましたが、子どもの時は、母と姉3人とで暮らしていました。でも、あまりに貧しいものだから、一つの布団の一方に私と母が、反対側から姉達が3人入って、こたつみたいな感じで寝ていました。
そんなこともあって、みんな今でも仲がいいんですよ。 貧しかったけれど、母からは「いつも笑顔でいなさい」、と言われていました。沖縄の言葉では、 「ちゃー、笑いかんとうて」と言います。
「悲しい顔をしたら、友達が悲しい思いをする。だから、困った顔を見せないで、いつも笑顔でいなさい」とね。 そんな母でしたが、私が14才の時に、気 管支炎で亡くなったんです。
当時、姉達は既に成人していましたので、学校を卒業するまでは姉達が面倒を見ようと言うことで、最初は次女夫妻が、その後は三女夫妻が来てくれて、私の面倒を見てくれていました。
そうこうしているうちに、ハワイに住んでいた叔母が私のことを心配して、ハワイに呼びたいと言ってくれて、それでハワイに来ることになりました。
父との出会いと決別
親父は歯科技工士でした。ただ、昔は歯医者が足りなくて、技工士も治療したりしていた時代です。看護婦さんや助産婦さんが医者の代わりに軍隊の病院で治療に当 たっていた時代ですよね。いい仕事だったと思います。
中学を卒業して、高校に進学するための 願書を出そうとしたら、私の戸籍がないことが分かったのです。親父は以前、何度も母に会いに来ていたから、どこにいるかは、周囲の人は、大体みんな知っていたんです。
それで会いに行ってみたら、認知はしてくれたのですが、親父には家庭があるから、私が現れたのが迷惑だったのでしょう。脱みつけられて、その時、もう二度と親父のところには来ないと誓ったんです。
そして、親父の生きている間、会うことはありませんでした。 そんな事情だったので、私には親父の側にも兄弟が3人いるのですが、戸籍では、長男、長女、次男となっていて、その後に、私はただの「男」と記載されているんです。
ところが、ある時、私の息子が小さい時に、 「おじいさんが亡くなった」と私に言いに来た。それで、おかしいと思って調べてみたら、親父が本当に亡くなっていたんです。親父は、死に際に、孫に夢の中で会いに来たんですね。
それで、手を合わせに行こうと思い立って、46才で31年ぶりに訪ねて行ったのですが、その時、親父側の兄弟が、とても温かく私を迎えて、よくしてくれました。
何故かというと、親父が亡くなる前に、 病院で私のことを心配して、兄弟に、「ハワ イに息子がいるから、もしハワイから帰って来たら大事にしてやってくれ」と言い残していたことが分かったんです。
そういう形で、46才で親父のよさが分かった。初めて会いに行ってから31年経っていたんです。だから私は、誰かが自分のことを分かってくれないと思っても、待てるようになりました。