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デジタル版・新聞

インタビュー

サウンディングジョイミュージックセラピー代表 梶原恵子さん

ハワイの情景が頭から離れなくなり、ハワイ移住を決断

ニューヨ ーク大学で音楽療法士の勉強をしている時に、クリスチャンである私は、 教会の学生が集まる会のお手伝いをしに 行き、そこで初めて今の主人に会いました。

 

最初の印象は「何だこいつ、日本人の私に対してまで英語で話してくるなんて」って思 ったのですが(笑)何度も会ってるうちに、いい人だって分かってきたんです。

 

でもそのうちに、彼のほうが日本へ帰ってしまったので、お付き合いはそこまでになりました。 しばらくして、母が重い病気にかかってしまったから帰って来て欲しいと、父から連絡がありました。

 

大学を休学して、母の看病のために日本に帰った時に彼と再会したのですが、私の母に対してまで献身的に看病をしてくれる彼の姿を見て、この人 しかいないって思いました。

 

母も彼との結婚には大賛成だったのですが、結婚式の 10日ほど前に母が亡くなってしまったんです。

 

母が亡くなる前に、母も死を予期していたと思うのですが「私が死んだからってい って結婚式を延長するのはやめてね」と言 われてましたし、また彼のご両親からも、私の母の意見を尊重して欲しいと言われたこともあり、母が亡くなってすぐでしたが、予 定通りに結婚式をしました。

 

その後1年くらいは、父の仕事を手伝いながら日本にいたのですが、中断していた、 音楽療法士の勉強を最後まで終わらせたいと思い、ニューヨ ークに戻ることになりました。

 

その後順調に学校での勉強を終え、最終的にニュー ヨ ーク大学の音楽療法士 の修士号を取得し、インターンとして精神科の病院へ行ったり、特別支援学級で働いたりしていたのですが、この仕事と言うのは思った以上に精神的に大変だったんです。

 

あるとき州立の病院の精神科へ音楽療法 士として通っていたのですが、一日働くと、 体だけでなく精神的にも疲れきってしまい、 体がこわばって動かなくなってしまうんです。

 

そんな日が続いてしまったこともあり、この仕事では身が持たないかも知れないと思い、普通の仕事に就くことにしました。その後、音楽療法士ではなく、ニューヨークの日産で働き始めました。

 

畑違いの仕事だから採って貰えないかも知れないけど、当たって砕けろと思って面接に行ったら、たまたま面接官が大の音楽好きで話が盛り上がり、即採用してくれました(笑)。

 

その後3年ほど日産で仕事を続けていて、「まあ、こんな楽な人生もいいかなー」なんて思い始めていたのですが、私の働いていた 支店がなくなってしまい、職を失ってしまつ たんです。

 

「もしかしてこれは、私にまた音 楽の道に戻れ、そろそろ真剣に考えろ」っていう、何かの導きなのかも知れないと思い、その後ブルックリンの特別支援学級で、音 楽療法士として働き始めました。

 

しばらくそこで働いていたある日、主人と二人でハワイにバケーションにやって来ました。ニューヨークという大都会に居て、背の高いビルを見たくなかったというのもあり、私たちの初めてのハワイはカウアイ島でした。

 

カウアイ島に降り立ったとき、私たち夫婦そろって 「地球上にこんなにもすばらしいところがあるんだー」って二人で感動したのを覚えています。カウアイ島のあるビー チで、ローカルのファミリーがウクレレで「上を向いて歩こう」を歌っているところに出くわしました。

 

近くにいる私たちを、フ ァミリーの和に入れてくれて一緒に音楽を楽しんだのですが、私たち夫婦は、ハワイの人たちの心の温かさにも感動を覚えました。

 

バケーションを終えて、夫婦でニューヨークに戻ったのですが、二人ともハワイのすばらしい景色が忘れられなくなってしま って、毎日目をつぶると、ハワイの情景が瞼の裏によみがえって、頭から離れなくなってしまったんです。

 

ハ ワイのバケーションから1年以上たっても、夫婦揃ってハワイでのすばらしい経験や感動が忘れられず、それどころか日増しに強くなってきてしまったこともあり、二 人でハワイに移り住むことを決めました。

 

 

音楽療法士を続けるためには自分でやるしか道はなかった

ハワイでも音楽療法の仕事を続けたいと思い、色々調べてみたのですが、その時代ハワイで音楽療法士の資格をもった人は一人しかいなかったんです。

 

州立の病院で仕事をされていたようですが、音楽療法士としてではなく、レクリエーションセラピーの仕事をなさっていて、音楽療法はハワイではまだ確立されていませんでした。

 

最初はどこかで働こうと思ったのですが、音楽療法というものがまだ知れ渡ってないこともあり、仕事がありませんでした。音楽療法士として働けないのならば、自分でやるしかないと思った矢先に、クライアントを人紹介していただきました。

 

その子はレット症候群を持つ女の子だったのですが、親御さんが音楽療 法士をずっと探していたそうで、すぐにその子のいる特別支援学級を訪問しました。

 

彼女には、体の前で手をたたく動作が止められない症状があり、今までもいろんなことを試して、その動きを止めようとしたそうですが、何も効き目がなかったそうです。

 

そんな中、私が音楽療法を始めたとたん、誰にも止めることの出来なかった彼女の手がピタッと止まったんです。それを見ていた先 生方がびっくりしたこともあり、その噂が広がり、たくさんの方からの問い合わせを頂きました。

 

それと同時に、州や学校から補助金が下りたこともあり、たくさんのクライアントを診ることが出来きましたが、しばらくして補助金が打ち切られてしまい、音楽療法士として続けていくのが難しくなってしまいました。ボランティアとしてやっていくには限界がありますからね。

 

その後、たくさんの音楽 療法希望者になんとか応えようと、2002年にサウンデイング・ジョイという非営利の 福祉団体を設立することにしました。

 

最初の活動として、まずは音楽療法とは何かというのを理解してもらうのが大変でした。音楽レッスンやヒーリングとは違い、それらと区別して理解してもらうために、声がかかればどこへでも出向いていって、音 楽療法の説明をさせていただきました。

 

そのうちに共感してくださる人たちも現れましたが、最初は場所や楽器がなくて、とにかく苦労しました。

 

3年くらいしたころでしょうか、ある団体から、楽器代にと大きな寄付を頂き、それまでそろえられなかった楽器を買うことが出来たんです。

 

同じ時期に、ハワイ州から補助金がおりることになり、オフイスもドーネーションとして安く貸してくださる人がいたりして、やっとクライアントを診ることができるようになりました。

 

実はこの時、もう続けるのは無理かも、止めてしまおうかなって、くじけそうになっていた時期でした。

 

皆さんの誠意や援助、州からの補助金のおかげで、それまで音楽 療法が受けたくても受けられず、ウェイティングリストに載っていた100人近いクライアントに音楽療法のセッションをすることが出来ました。

 

2008年には、ハワイ州の社会福祉課からも補助金を出していただき、 年間300人前後のクライアントのセッションをすることが出来ました。それが2011年 まで続いたのですが、その補助金も終わってしまい、今後どうやってこの団体を存続させていこうかと、現在模索している最中です。

 

もちろん今でもいろいろなところの補助や寄付を募っているのですが、そう簡単なことではありません。

 

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