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デジタル版・新聞

インタビュー

アナウンサー 大下治心さん

KOHO·KZOO放送の名アナウンサーとして、長年愛されてきた大下さん。日刊サンの連載コラムでもお馴染みですが、時事問題を鋭く斬るハワイの御意見番的存在です。ハワイの日本語メデイ アで活躍してきた大下さんに、政治やハワイの時事問題についてお話しを伺いました。

ライター:相原光

 

 

放送のマジックに魅了されてここまで来ました

 

ハワイが州になる前に、広島から呼寄せ留学

僕は昭和15年、広島県呉市の出身です。親父は出兵して戦死してしまったので、全然記憶に残っていないんです。2歳下の妹を父が抱いている写真だけが僕の知っている父の姿です。潜水艦の技師をやっていて、最終的にはシベリアで戦病死したそうです。

 

宇品まで位牌を取りにいったのを覚えています。 お袋は再婚して腹違いの弟が生まれたのですが、産後の肥立が悪く、1年ほどでお袋も死んでしまったんです。僕と妹は母方の叔母の家に引き取られて、12歳の時に山口県柳井市に住むことになりました。

 

でも、母方の祖父母がハワイに移民していたので、中学の2年生頃から呼寄せをお願いしていたんです。叔母の家は農家で、不満があったわけではないのですが、外に行 ってみたいという気持ちがあったんでしょうね。中学卒業後に柳井高校に1週間だけ通って、1955年、15歳でハワイに渡ることになりました。

 

ハワイに来て最初の1年はハワイミッションスクールに通い、その後マッキンリー高校に進みましたが、苦にはならなかったですね。当時は日本人の留学生はあまりたくさんいませんでした。まだ帰米2世の方々が多かったようです。 当時は週に2ドルのお小遣いを貰っていたけれど、使う所が全然なかった。

 

家はヤングとマッカレーの近くで、学校から帰ってくる道にお店なんて1軒もない(笑)。週末は留学生の友達と日本の映画を見に行ったりしてましたね。チャイナタウンの先のアアラパ一クの近くに、昔は日本の映画館がたくさんあったんですよ。料金は1ドルくらいだったかな。

 

あの頃はまだハワイが州になる前で、のんびりしていましたね、人が温和だった。車の鍵なんてかけたこともなか ったですよ。 ハワイに来て最初の数年は帰りたいと思 ったこともあります。でもご赦免船が来なか った(笑)。そのうち妹が結婚して落ち着いて、このままハワイにいるのもいいかなと思うようになった。僕はまわりの人にかわいがってもらえたらから、すごくラッキーでしたね。

 

 

 

大学在学中からラジオの世界へ

59年にマッキンレ一を卒業して、ハワイ 大学に進学しました。専攻は経済。大学在学中からラジオでバイトを始めました。 1959年12月29日に日本語のラジオ局としてKOHOが開局しました。この時局のマネージャ一を務めていたフーバー立石さんが僕を雇ってくれて、KOHOで働くことになったんです。

 

最初はニュース部、それからDJを担当するようになりました。 フーバーさんは僕を育ててくれた、色んな意味で僕にとっての師匠です。本当に頭の良い方で、同時通訳なんか天下一品でしたね。フーバーさんは日蓮宗のお寺の息子の2世です。

 

フーバーさんとの出会いは、僕がハワイに来て初めての日曜日に、サンデ一スクールとしてお寺に行った時でした。なんというか、縁というのは不思議なものですね。

 

ところが、61年にはフーバーさんがクピになってしまった。フーバーさんの復帰を会社に掛け合った14人は職場放棄を決行しましたが逆に解雇されました。 14人組みと呼ばれていて、僕もその中に入っていました。 1963年にKZOOが開局して、フーバー さんが復帰することになりました。

 

KZOOはクビになった14人組が主体になって始まりました。これで日本語のラジオ局が2局になったわけです。 以来ラジオや新聞などのメデイアに携わり、ここまで来ました。ストロークを起こして、これで引退と考えていましたが、今は最後のオットメとして頑張っています。

 

「まだ辞められませんよ。ソサエティに還元してください」と頼まれてしまつて(笑)。少しでも還元できてるといいのですが。 日本語の放送はいつまで続くのかという危惧は、60年代からあったんですよ。日本からの資本がどこまで入ってくるのか、当時はまったく分からなかった。

 

日本語だけで番組を提供して、それだけで食っていけるという自信はなかったけれど、なんとかやってこれた。それはコストが安かったから。ス タッフはものすごく安い賃金でやっていたわけだから。 KZOOは番組のテコ入れをしていかなければならないでしょうね。

 

例えば英語ができる人を入れること、または完全なバイ リンガルにすること。英語は英語、日本語は日本語で、かぶってもいいから両方やることが今後は重要になってくると思います。日本語を英語にしなくちゃいけない、英語を日本語にしなくちゃいけない、という風に気を使っていると、内容が半減してしまう。そんな気は使う必要はないと思うんです ょ。

 

ハワイにはバイリンガルの人がたくさんいるんだから。そうやって変わっていかない と難しいと思います。 僕はとにかくリスナーの方に感謝しています。見よう見真似で始めたけれど、こうしてやってこれて、喜んで頂けた。僕は大した人間じゃないのに、高く評価してくれた。年の功ではありませんが、僕の意見が少しでもお役に立つと嬉しいなと思います。

 

 

特技は実況中継中に寝ること

僕は放送のマジックに魅了されてずっと来たと思う。フーバーさんもおっしゃっていましたが。情報を提供することはマスメディアの使命。僕もそう思ってやってきました。フーバーさんは残念ながら早く亡くなってしまいましたが。

 

放送中の失敗はたくさんありますよ、僕は失敗ばっかりです(笑)。例えばスポーツの実況中継。当時のスポーツ中継は、弁当箱の様なミキサーを持って1人で現場に行く。現場には電話線が来ているから、それを弁当箱につなぐと音が出る仕組みになっている。

 

もちろんマイクもそこについていた。 しかもその頃はまだ録音機が充分でなく、コマーシャルも現場から送っていたんですよ。実況中継をやりながらコマーシャルも読まなくちゃならない。アシスタントは誰もいない。

 

水泳の100メートル自由形ならすぐに終るから分かりやすいけれど、これが1500メートルになったら誰が何百メートルをターンしたか分からなくなります。「今何百メートルか分かりませんが」なんて実況していた(笑)。 それから、ゴールの時に 「3メートル、2メートル、1メートル、ゴールイン」と言ったつもりが、「3メートル、1メートル、2メートル」 と1と2が逆になっていたこともありました(笑)。

 

僕ね、実況中継やりながら寝るのが特技なんです(笑)。 昔モィリィリに32,000人収容できる野球場があったんですよ。50年代はハワイ• メジャーリーグというのがあって、すこく人気があった。日系・ポルトガル・ 軍·UHと主 要4チームの試合の時は、いつも大盛況でした。

 

それから、プロのトリプルAのハワイ アイランダーズというチームもあって、週に2回実況中継をしていました。 これも1人で中継しなければならないわけです。上でKGMBの連中が放送してるんだけど、彼らはCM の間はおしゃべりできる。でも僕はイニングの間もコマーシャルを読んでるんですよ(笑)。

 

その野球の中継中に、寝てしまう時がよくありました。寝ているんだけど無意識で何かしら喋って実況はやってるんです。自然に言葉が出ているんですよ。でも何を喋 っているか、意識はない。そこで「サイミン」 という言葉を自分で口にして、ハッと目覚めたことが何回もありました(笑)。

 

どうもサイ ミンというのが目覚ましの言葉になっていたみたいです。キング沿いにサイミン店があって、フアールを打つと 「サイミンまで飛んだ」と実況していたので、よくその言葉を使っていたんですね。実際はそんな方まで飛びません(笑)。

 

寝ていた時間は本当に何秒間かだと思いますよ。聞いている方は分からなかっただろうとは思います。 西武ライオンズがメジャーと親善試合を ァロハスタジアムでやった時も、中継を担当しました。でも一番上の席だから、ストラ イクかボールかなんて見えない。審判があまり動かない人だともうお手上げですよ。あの時も寝ちゃいましたね(笑)。

 

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